台湾を理解する

かつて香港に仕事で出向いたおりに台湾の上空を旅客機が飛び『緑が多い島だな』と感激した覚えがある。

砂漠化が進んでいるとされる北京周辺ではこうは行くまい。ひとつにはフィリピン周辺の湿った暖かい大気が大量の雨をもたらしているからなのかも知れない。

岩がゴツゴツと露出している朝鮮半島の景色ともちがう。どちらかと言えば日本列島に似た景色だ。

これには黒潮と呼ばれる世界有数の海流が関係している。赤道の北側を西向きに北上して房総半島沖で親潮とぶつかって東に向く。

台湾に人類が居住するようになったのは300万年~1万年前の氷河期の終わり頃だったとされていて、その頃は海面が低かったために大陸と地続きになっていたらしい。

ところが氷河期が完全に終わって海面が上昇して離島になり、黒潮海流が流れるようになると、南洋諸島から別の部族が船を使ってやってきた。一部には琉球や九州にも及んだとされている移民であり、彼らの子孫はハワイにまで達したとされている。

海流に沿って移住すると比較的移動が楽なんだよね。

こうやって大陸とはちがう部族が台湾の原住民となって棲みついた。それはいくつもの部族に分かれていて、もともとポリネシアあたりの生活文化を持っていたために、首刈族とかもいたらしい。

16世紀の明の時代に入ると、漢民族や倭寇(日本人というよりは琉球人だったのではないかと推測される)が棲みつきはじめ、大航海時代のオランダやスペインが進出してくるようになった。

種子島に鉄砲を伝来させたりフランシスコ・ザビエルなどが布教に来たのも、この台湾から出発したのではないかとされている。

17世紀に入ると、台湾南部がオランダ統治になり、北部がスペイン統治になった。豊臣秀吉の時代である。

オランダは東インド会社を台湾に作り、明朝が領有していた土地を占領し、福建などから大量の漢人を移住させて台湾を開拓させようとした。

つまり植民地なのだが、台湾の原住民に大陸の漢人を混ぜ込んでしまった。現在の台湾に本省人と外省人が混在する原因はオランダが植民地化するために起こしたものだった。

しかし明朝が清朝から滅ぼされようとしていたこの時期に、明朝の軍人だった鄭 成功(ていせいこう)が抵抗運動を起こし、台湾に渡って軍事政権を打ち立てた。

そのためにオランダ軍は討ち払われることになる。

だから台湾の歴史から言えば、孫文と蒋介石と鄭成功が国神とされているのだが、いずれも大陸からやって来たいわば侵略者であることに代わりはない。

ちなみに鄭成功とは福建省出身の父親と長崎の平戸に住む日本人の母親との間に生まれたハーフである。なぜ平戸に福建省出身の父親がいたかと言うと、モンゴル帝国に由来する満州族によって明朝が滅ぼされ、明朝の皇族たちはばらばらになってあちこちに亡命政権を作ろうとしたからである。鄭成功にはその血が流れていた。

本来の台湾原住民は、オランダの植民地計画や大陸の明と清との争いなどに振り回された経緯があるわけ。

しかし自治政府を持たない部族は、力の強い民族に身を任せるしか方法がなかった。野望を持っていたオランダは進出からたった37年で鄭 成功から駆逐された。半分は日本人の血が流れる鄭 成功が台湾から白人を追い出した格好になった。

そこで反清勢力を台湾で育てようとしたんだけど、清朝からの攻撃を受けて鄭一族は降伏せざるを得なかった。

だから大陸の権力争いの代理戦争の場に利用されたということ。

ただ鄭 成功が台湾独自の政権を建てたことは歴史上の事実であって、台湾開発はここから始まっている。だから現代の台湾人の精神的支えになっている。

鄭一族を滅ぼした清朝だったが、台湾を領有したものの「化外の地(けがいのち)」として清朝皇室の支配する領地ではないとした。つまり「中華文明に属さない土地」という意味であり、この時点で主権を放棄した形になっている。

だから清朝の統治が及ばない未開の地になり、福建省や広東省などの貧窮民や海賊などの荒くれ者が棲みついた。これらの理由で「台湾には乞食と泥棒しかいない」とまで言われた。

その後、ヨーロッパ諸国がアジアに進出して来て、清朝は「アロー戦争(1858年)」「清仏戦争(1884年)」と戦争を戦うことになる。

1871年に起きた「宮古島島民遭難事件」は興味深い。宮古島の船が台湾付近で遭難し、台湾に漂着して避難者は山中をさまよった。このうち54名が台湾原住民によって殺害される。日本政府はこの事件に対して清朝に抗議したが、台湾の原住民は化外の民(けがいのたみ)として、清朝は無関係を通達して来る。これに激怒した日本政府は明治7年に台湾出兵を実施する。

清朝に抗議しに行った副島種臣は門前払いを受けて帰国し、征韓論に敗れた西郷従道に台湾征伐の命を下す。明治7年のことだった。

征韓論と微妙に関係していることがわかる。

西郷は兵員3658人を複数の軍艦に乗せて長崎を出港。清国政府の要求を無視して激しい戦闘を加え降伏させ、殺害された琉球藩の船員らの遺骨を集めて埋葬した。

こうした日本と清国の関係性は、明治27年に発生した朝鮮国内における甲午農民戦争をきっかけとする日清両国の出兵によって日清戦争へと発展する。

すなわち日本と台湾、日本と朝鮮は何も無関係ではないということが明らかになって来る。

そして、日清戦争に敗れた清国は、明治28年の下関条約において朝鮮の独立を認めると同時に台湾の統治を日本へ譲った。

しかし清国に触手を伸ばしていたロシア・フランス・ドイツが日本へ対して遼東半島の割譲を返上するように日本政府へ圧力をかけた。これが世に言う「三国干渉」である。

遼東半島とは、大陸の喉先に突きつけた匕首のような軍事拠点であり、日本に握られてはこまるわけだ。

それとは反対に欧州列強が割譲を認めたのが台湾だった。

日本政府は「農業は台湾、工業は日本」と分担する計画で、台湾の農業振興のための灌がい事業や農作物の多様化などに資金を投入した。

一方で天皇陛下を頂点にした臣民思想のもとに、台湾の人々に教育をほどこし、行政機能や経済能力を高めるために数多くの優秀な人材を日本へ留学させたりもした。

これは朝鮮でも同様なのだが、清国の属国だったか捨て子扱いされたかで結果は大きくちがって来る。

当時の台湾は衛生状態が非常に劣悪で、飲み水さえもが多種の病原菌で汚染されていた。近代的な上下水道を完成させたのは後藤新平であり、農業用水を確保するための烏山頭ダムを建設したのが八田輿一だった。台湾の本省人の多くが日本の統治時代を高く評価しているのはこういった理由がある。

大東亜戦争が勃発すると台湾も米軍の爆撃を受けるようになり、台湾の工業化は道半ばにしてついえる。

第二次世界大戦の終結後、連合国に降伏した日本軍の武装解除をするために蒋介石率いる中華民国政府軍が上陸する。この時点では中華民国が中国全土を支配していたのであって、台湾が日本から返還されるということは「台湾も含めたすべてが一つの中華民国である」という図式が生まれることとなった。

がしかし、蒋介石率いる国民党軍はあまりにも粗暴で教養もなく野蛮だったことから、地元の台湾の人々は「日本の方が圧倒的に良かった」として、侵略者を忌み嫌った。

一方で大陸では、毛沢東率いる共産党軍が日本軍が撤退したあとの北京を占領して国民党軍を蹴散らした。

たまらず敗走する国民党軍は台湾へ逃げた。

だから現在の台湾には、もともとの住民と国民党軍関連の兵士や家族や国民党を支持していた経済人・文化人などが移住して来た二種類に分かれている。

日本政府が苦心してインフラ整備を成し遂げた台湾に、ただ同然で乗り込んで来ることができた国民党は「外省人」と呼ばれながらも台湾のあるじのようにふるまった。

だから台湾のすべてが親日ではないという理解が必要だ。

少し長くなったが、これが台湾の近代史である。




皆さん、ご機嫌よう。







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