そうめんのお話

参議院選挙が公示されたので、時事ネタがどうにも書き辛い。

私のような毒舌は選挙妨害になりやすいんだよね。

それでなくても「人を殺すための予算」などと墓穴を掘っている輩がいるからネタには困らないだけに黙っているのがしんどい。



知人とそうめんの話になったので、今回もまた長崎にまつわる話題をご紹介したい。

そうめんと言うと奈良の三輪そうめんが有名なんだけど、長崎の島原にも手延べそうめんの名産品がある。

実はこの「三輪そうめん」と「島原そうめん」、ルーツは同じなんだよね。

徳川幕府の初期に島原を治めていた松倉重政という大名が大和五条からやって来た。関ヶ原の戦いで豊臣勢が破れたから、徳川による行政改革が行われたんだよね。

この奈良出身の松倉、相当にひどい年貢の取り立てで領民を苦しめた挙句に、先代のキリシタン大名だった有馬氏の関係でキリシタンが多かった領民を厳しく弾圧した。

それで日本史上でも最大規模の農民一揆が発生して、島原の乱に発展。

この農民による一揆が全国規模に拡大することを恐れた幕府は、猛烈な虐殺で鎮圧しようと幕府軍を派遣して壮絶な「皆殺し」を慣行。

あまりにも殺し過ぎたので島原半島南部と天草に農民がいなくなっちゃった。

こうなっては年貢の取りようがない。

そこで松倉は実家がある大和(今で言う奈良県)から農家の次男三男を連れて来た。「農地を下げわたす」とか言って。

だから現在の島原半島の人々は、元々の九州人ではない。虐殺されて根絶やしにされた。

現在の島原南部の人々は「移民」の子孫ということだ。

その「移民」の人々がそうめんの技術を持っていた。

なぜ大和の人がそうめん技術を持っていたか。さぁお立会い、ここからが本題。




Wikipedia によると、そうめんの起源は古代中国の後漢の「釈明」や唐の文献に出て来る「索餅(さくへい)」が日本に伝わり進化したという説が有力だとか。

時代的には遣隋使(600~618年)や遣唐使(619~894年)の頃に相当するんだけど、長崎の五島には椿油を使ったうどんの乾麺が残っている。五島も遣隋使・遣唐使の航路の途中に位置している。

麦はコメの裏作で栽培できるので日本で広まったんだけど、本来は水稲とは無関係のアフリカ北部や中東が発祥らしい。

乾燥穀物を得たことで人類が大移動できるようになったわけ。食べてよし、植えてもよしというわけだ。

東南アジアは湿地帯が多くて麦よりもコメが向いていた。

そこで麦は中東からインドの方へは向かわず、ウイグルを経由して古代中国へ入った。シルクロードのラクダに乗せられて。

当時は製粉技術が高くなかったので、小麦よりも大麦の方が主流だったとされているが、石臼が発明されてからは小麦を粉にする方法によって様々に加工されるようになって行った。いわゆる「パスタ」だ。

それをいったん乾燥させると保存ができる。粉にして、水で練って加工し、乾燥させる。これらの方法を遣隋使や遣唐使が日本に持ち帰り、奈良の大和で広めたというわけだ。

五島うどんに椿油をもちいるのも、あれはオリーブ油の代わりなんだよね。遣唐使の空海は優れた科学者でもあったわけ。

最後の遣唐使の記録が「入唐求法巡礼記」という文書であり、その中に「ほうとう」が出て来る。さらに道元が著した「典座教訓」には麺汁が見られる。

回転式の挽き臼が伝来したのは平安時代だが、江戸時代に水車を動力に利用した製粉機が発明されたことで麦の加工が普及したとされている。

ちなみに李氏朝鮮からの通信使が、日本の水車を見てひどく驚いたとされているが、日本に併合されるまで朝鮮人は水車を作ることができなかった。




麦文化が奈良に届いたと言うのは、庶民が飢えないようにという宗教的な思いやりの結果であって、水車などの先端技術が食糧確保にフィードバックされた格好になっている。

飢えないためには頭を使うしかないのである。

うどんといえば讃岐に代表されるようなしっとりもちもちの柔らかい麺を真っ先に想像するけど、あれはグルテンであって古代の日本に伝えられたのは乾麺でありパスタなのである。

だからそうめんや五島うどんが本来の姿であって、奈良にそうめんが根付いたのもそんな理由がある。

そこには仏教の「救済」という使命があったからなのだが、その文化が島原にもたらされた原因は松倉による悪政と弾圧だったというから皮肉なものである。




冷やしそうめんが食べたくなった。

皆さん、ご機嫌よう。






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