放射線影響研究所 前編

「スギ花粉の放射能濃度」2016.02.27 と題する記事を見つけて、(ショッキングなタイトルだな)と思いつつ読んだ。

http://fine-club.com/project/?p=5158#more-5158

おいおい待ってくれ、ただでさえ嫌われ者のスギ花粉が放射能汚染を受けているのか?

だったら人間だけではなく、呼吸をしている犬や猫の花粉症を患っていない者でも内部被曝の危険性があるということになって来る。

記事は内海聡氏のFacebookを引用してこう指摘している。

『福島県立医科大学は原発事故当時、日本中から100万錠のヨウ素剤を集め大学の関係者だけで飲みまくった。それが今、「放射能の影響とは考えにくい」と言っている人たちであり、その代表が山下俊一、神谷研二、丹羽大貴などの嘘つきたちである。』

内海氏のことは後に回すとして、ここに名指しされた山下俊一氏のことに触れてみよう。

この人物は医学博士として長崎大学の理事職に就いている教授だ。

しかも被爆者二世でありチェルノブイリに100回以上出向いている。

チェルノブイリでは健康調査という名のデータ取りをおこなう一方で、甲状腺がんの子供の診療に従事している。

平和利用であれ兵器であれ、核の被害はまだ人類が完全に把握している訳ではないのでデータの蓄積は重要なのだが、「人の不幸につけこんで」といった批判もまた付いて回ることになる。

山下の母は16歳の時に長崎市内で被爆した。山下自身は1952年(昭和27年)に生まれたが母親が被爆者なので自動的に被爆者二世となっている。(その点では私と同じだ)

彼は「隠れキリシタン」の家系でありカトリック系の小中一貫校で学んだ。

長崎大学医学部に進み、卒業後は長瀧(当時)教授のもとで同大学病院の第一内科助手として勤務している。

この長瀧氏は長崎大学医学部長や放射線影響研究所の理事長を歴任した人物だ。




もつれた糸をどこから解こうかと悩んだが、放射線影響研究所、略して放影研から理解して行きたい。

アメリカ合衆国は、ヒロシマに原爆を投下した直後に、被爆者の傷害実態を詳しく調査記録する目的でヒロシマとその3日後のナガサキとにそれぞれ原爆傷害調査委員会(Atomic Bomb Casualty Commission)という民間機関を設置した。

いわゆる純然たる調査機関であって医療行為は一切おこなわない。正式な調査施設はアメリカ科学アカデミーが1946年(昭和21年)に設置している。

その後アメリカ公衆衛生局やアメリカ国立癌研究所、アメリカ国立心肺血液研究所などからの資金提供を受け、1948年には日本の厚生省国立予防衛生研究所が参加した。

なぜ彼らが資金提供やプロジェクトへの参加をしたのかと言うと、はっきり言って「得られたデータ」が欲しかったからだ。誰も被爆者を救おうという意識はなかった。(医療行為は日赤原爆病院がおこなっている)

敗戦直後の日本の厚生省や東大医学部には、満州から引き揚げて来た731部隊の残党などがうようよしていたから、核兵器による傷害データなどは喉から手が出るくらいに欲しかったはずだ。

現に長崎大学医学部は現在、熱帯医学研究所を設けてウイルス学や感染症学・細菌学などの研究を続けているが、これは731部隊からの延長ではないのかといった声もあがっている。長崎大学病院では多数の奇形児を解剖した研究者がいたが、これもまた原爆からの影響を調査していたもので、医学者にしてみれば地球上でも二つしかない貴重な地域によるデータだったのだ。

そっちに行けば、最近になって問題視されている理研とか化血研とかの名前が出て来るのだが、今回は脱線したくない。




原爆傷害調査委員会(ABCC)と厚生省国立予防衛生研究所(予研)は1975年に再編され、日米共同出資運営方式の(財)放射線影響研究所として発足している。

長崎にある放影研のホームページを見てみよう。

『公益財団法人 放射線影響研究所(放影研)は、平和目的の下に、放射線の人体に及ぼす医学的影響およびこれによる疾病を調査研究し、被爆者の健康維持および福祉に貢献するとともに、人類の保健福祉の向上に寄与することを目的として、1975年4月1日に設立された日米共同研究機関です。長崎と広島にある2つの研究所では、臨床医学、疫学、遺伝学、分子生物学、統計学、およびコンピュータ科学など諸分野における最新の方法を駆使しながら、被爆者とそのご家族に協力いただいて、放射線の影響を調査研究しています』と出ている。

つまり、健康維持に貢献していると謳いつつも実は『被爆者とそのご家族に協力いただいて、放射線の影響を調査研究しています』と結んでいる。

だから前身であるABCCと本質部分では何も変わっていないと言うことができるのであって、この放影研(広島・長崎両施設)の元理事長だった人物が長瀧である。

私はこの人物が、教え子の結婚式で仲人を勤めた席に参列したことがあったが、彼は仲人挨拶で「我々は科学者であれかしと努力を重ねる」と言った。決して「医者であれかし」とは言わなかった。臨床医ではなく研究医だと宣言している。

それもそのはず彼・長瀧氏は東大医学部の出身なのだ。長崎大学医学部と東京大学医学部は遺伝子的につながっている。それは長崎という被爆地の貴重なデータを東大が欲しかったからだ。

そしてその右腕になって活躍したのが山下だったというわけだ。




もともと長崎は日本唯一の貿易港として、先端医学の地であった。

「医学は長崎から」と言われて、日本中の知識人が集まった。現在でも医学部に進むなら長崎大学で学びたいとする受験生が少なくないという。

しかしそこが東大医学部の闇の部分とつながっていたとすればどうだろう。

後編へ続く。




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