中国残留孤児

『大地の子』という小説(ノンフィクションではないという意味)は山崎豊子の作品。
NHKの「クローズアップ現代」で山崎氏はこう語った。
「中国大陸のそこここで、自分が日本人であることも分からず、小学校にも行かせてもらえず牛馬の如く酷使されているのが本当の戦争孤児ですよと…、私はこれまでの色々な取材をしましたが、泣きながら取材したのは初めてです。敗戦で置き去りにされた子どもたちが、その幼い背に大人たちの罪業を一身に背負わされて『小日本鬼子(シャオリーベンクイツ)』、日本帝国主義の民といじめられ耐えてきた事実、日本の現在の繁栄は戦争孤児の上に成り立っているものである事を知ってほしい。大地の子だけは私は命を懸けて書いてまいりました」(Wikipedia より引用)
ここで使われた言葉「大人たちの罪業」とは誰のどのような行為を指すのか、非常に疑問を抱かざるを得ない。

日韓併合時代に大邱(テグ=慶尚北道)にあった師範学校で軍事教練を受けた後、1942年に旧満州国の陸軍官学校を卒業したのが高木正雄(朴正煕)だった。
成績が良かったことから、満州帝国皇帝の溥儀から金時計を授けられている。
満州の軍官学校を卒業したあと日本の陸軍士官学校に留学し、1944年(終戦の前年)に卒業後、満州国軍の少尉に任官、1945年7月(ソ連参戦の前月)に中尉に昇進している。

つまり1945年8月のソ連軍の対日参戦時には、満州人と日本人開拓団と満州国軍と関東軍だけがいたわけではない。
元朝鮮人である兵士が多数紛れ込んでいたことになる。
そのことは、歴史の事実としては広く理解されているようだが、これを掘り下げようとするメディアや作家はほとんど見られない。

そして、満州から引き揚げる際に様々な不幸な出来事があったことは、いろいろな機会に紹介されているが、残されたり人を介して売買されたり奪われたりした子供たちが、いわゆる戦争孤児として残留した。
山崎氏はその一面だけを取り上げて憤慨し悲しんだのだろうと思うのだが、話は明治27年(1894年)までさかのぼる。

李氏朝鮮で発生した農民戦争をきっかけにして大日本帝国と清国がともに参戦して日清戦争が勃発する。両国の宣戦布告は同年8月(陰暦)である。
李氏朝鮮時代の農民戦争と言えば誰でも想像がつく。
いわゆる賤人階級が両班階級に盾をついたということであり、平等主義を導入していた明治政府と階級制度を守りたい清国がどちらに味方したかは一目瞭然なのである。
近代兵器で武装した大日本帝国軍は朝鮮半島と遼東半島を占領し、翌明治28年3月には下関で日清講和条約が調印された。
戦勝国である日本は朝鮮の独立を認めさせるとともに、遼東半島と台湾を日本の領土とした。
当時の清国にしてみれば、遼東半島は運輸・商業・軍事などの様々な重要拠点だったものの、当時の台湾は南洋から渡来した異民族の原住民がいるだけの未開の島だったことからほとんど価値を認めていなかった。

その後の日露戦争の戦費は、一般的にユダヤ資本の借り入れでおこなわれたとされているが、実はこの日清戦争の勝利で莫大な賠償金を日本は得ていたわけである。
しかし遼東半島を得た日本に異議を唱えた国があった。ロシア・ドイツ・フランスである。近代化した軍隊を有する日本が駐留するのはあまりにも危険すぎるからだ。
これを三国干渉と呼び、遼東半島(関東州)は清国へ返還されたが、清国はロシアへ租借地として明け渡した。清国は戦費調達のためにあちこちに借入金があったからだ。
日本は台湾を得ると同時に朝鮮の独立を得ることになる。

しかし満州地方を清国に返還せよという三国干渉の結果を無視してロシアは満州を手放すことなく租借し旅順および大連の軍港化を進めた。
ロシアの南下政策に危機感を覚えた日本は、明治37年(1904年)ロシアへ対して宣戦布告をする。

ところでカール・マルクスが『資本論』を出版したのは1867年だった。これに心酔したのが1870年生まれのウラジミール・レーニンだった。
日露戦争の開戦の前年に、ロシア社会民主労働党の第2党大会が開かれ、ロシア革命へ向けて加速していた時期だった。

1900年、清国で発生した義和団事件を収拾する理由で満州へ侵攻したロシアを日米英が抗議し、撤兵を約束させたもののロシアは逆に増強した。
英国はこのために日英同盟を結び、アジアにおける利権を維持しようとする。

結論から言って、1904年2月に始まった日露戦争は翌年の1905年9月に終結している。20カ月である。
その当時、清国から独立していた大韓帝国は中立宣言を出していたが、強大な軍事力を背景とするロシアの南下政策に危機感を抱いていて、国内における日本軍の軍事行動を許可する「日韓議定書」を締結している。
大韓帝国とは言っても、内容は旧李氏朝鮮の両班支配構造そのままの身分制度が残っていて、軍事大国の間に挟まれて中立を維持することなど到底不可能だと判断した。
そこで大韓帝国政府は、日本への協力姿勢に出ていたが、支配階級をはく奪されていた旧両班は日本の影響を嫌い、ひそかにロシアに通じようとした。

この頃の戦争は近代化の差が開きすぎていて、短期で勝敗が決まっていた。
終戦交渉はアメリカの仲介でポーツマス条約によって終結している。

ここに朝鮮(韓国)の身の振り方と満州地区(中国東北部)の地政学的な不幸が読めて来る。

さて、そこまで理解した上で大東亜戦争終結直後の満蒙開拓団の人々の悲劇を見なければならない。

開拓村から逃げて来た人々は、いきなりロシア兵に襲われたわけではない。追って来ているのだから。
実は彼ら避難民のすぐそばにいたのは朝鮮族だったのである。
そこで猛烈な殺人・暴行・略奪・強姦が行われた。
ロシア兵はすぐ背後まで迫っている。
それで母親は断腸の思いで赤子を手放した。
その子供たちが『小日本鬼子(シャオリーベンクイツ)』と呼ばれた子供なのである。

満蒙開拓団が単なる農地の確保だけが目的だったかのように語られているが、清国の統治の下手さと、ロシアの南下政策の危険性があったればこそなのである。
そして欧米諸国の利権による口出し。
大韓民国の相も変らぬ事大主義と、条約を無視し続けるロシアという国のふてぶてしさ。
これらは現代も何も変わっていない。

そしてもうひとつ変わっていないものがある。
それは中国人の「老後は子供に面倒みてもらう」という習慣だ。

1972年に結ばれた日中国交正常化によって中国残留孤児が表面化する。
ソ連軍が中立条約を一方的に破棄して満州へ侵攻したのが1945年のことだ。
つまり27年が経過している。
当時0歳だった赤子でも27歳という労働力に育っている計算になる。
山崎豊子著『大地の子』では、中国人の育ての母は中国に残ったが、厚生省(当時)が執った「中国残留孤児帰国事業」において様々な問題が生じた。

孤児の認定とか肉親捜しなんかでは抱き合ったりして感動的な映像が流れたものだったが、その後家族と称して不法に入国する者が続出し、2700人の残留孤児に対して19000人もの家族が押し寄せた。
孤児本人はもとより来日した家族までが日本語を話せないために、生活保護を受けなければ暮らして行けず、その子供(2世)も同様に社会に馴染めない状態になっている。
国籍は日本なのに中国人として犯罪グループを作ったりする、社会の闇を産んだ。
2005年には、残留孤児と見られる女性が、同姓同名で同じ戸籍を持つ別人がすでに日本へ入国しているとして却下される事態も起きている。

山崎豊子氏が主張する残留孤児の姿は、あくまでも「一面」でしかないことを正しく理解する必要がある。
そしてこの問題は、単に当時の日本が悪いだけではなく、清国・ロシア・イギリス・アメリカ・朝鮮などといった全体的な見方をしなければ、本当のことは見えて来ないのだという理解が必要だということがわかって来る。

現在、中国でスパイ容疑による逮捕者が出ているが、日本国籍を有するというだけであって、どのような素性の人物なのかは明らかになっていない。
この件に関して、菅官房長官はあまり首を突っ込まない方が良いと思われるが、いかがだろう。
民主党の福山さんも陳さんという人が帰化したのだそうですから、日本国籍なんて価値があるのやらないのやら。



皆さん、ご機嫌よう。







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