般若心経と永田町

照見五蘊皆空(しょうけん、ごうん、かいくう)とは般若心経の一説である。

このお経は、「観自在菩薩」から始まるもので、あくまでも主語は観音菩薩である。

「照見」とは、了解したとか理解したという意味であり、自在菩薩が見極めたということになる。

何を見極めたのかと言うと、五蘊はみな空であるということである。

五蘊を分解してみる。

五蘊とは「色・受・想・行・識」の五つである。

色とは物質的な世界である。

受とは感受するということである。

想とは思い至り考えるということになる。

行とはおこないであり、識とは自らの状態を知るということになる。

では、これら五つの生理的作業が空であるとする理由は何か。

実は空については解釈が様々に分かれているのだが、おおまかな意味ではこうなる。

「そのものの実態は「ない」のであり本質的なものではない」ということ。

だから五蘊にこだわり続ける事は、実態のない事柄に引き回される運命を帯びていることになる。

空はまた、移ろいゆく物だとしていて、ものごとは空から生まれ空に帰すとされている。

本質的なことではないのに、人は移ろいやすい五蘊に振り回され勝ちになる。

般若信教はそのことへの戒めでもある。

こだわりから開放されなさいということが般若心経の目的とも言えるだろう。

照見五蘊皆空の後にはこう続く。

度一切苦厄(どいっさいくやく)。

もう解説しなくてもお分かりだろう。

ちなみに「度す(どす)」というのは「渡す(わたす)」ということであり、どこへ渡すのかと言うとそれは彼岸のことである。

すなわち五蘊はみな空であると見極めれば、一切の苦厄は彼岸へ渡すことができるということであって、それが悟りの境地に相当するということになる。



なぜいきなりこうした話をしたかと言うと、国会議事堂を取り巻いて、あまりにも幼稚な運動が繰り広げられているからだ。

物を考えるという作業にあまりにも慣れなさ過ぎる集団が、簡単なロジックに騙されるようにして騒ぎ立てている。

中世ヨーロッパにおける魔女狩りのようなものだ。

実に嘆かわしくて情けない。

沈思黙考する習慣を、日本人は捨て去ったのだろうか。




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