中越戦争

今年は戦後70年の節目を迎えていて、この8月という時期は戦争の話題がどうしても避けられない。
それに加えて安倍政権がアメリカ議会で公約してしまった、夏までの法制成立を目指す安保関連法案のことで与野党が激しく対立している。
「戦争ができる国にする」だの「徴兵制が復活する」だのといった子供だましのデマが、新聞テレビで流されて、それにつられた学生やヤングママなどが、自分の頭で考える習慣がないままに大声を上げはじめた。
そして悲惨な原爆の祈念日がやって来る。
嫌が応にも盛り上がらざるを得ない状況だ。

そもそも日本の法制の問題を、アメリカの議会で先に宣言してしまうという首相の行為そのものに大いなる疑問を感じたのだが、これもまた郵政民営化の時と同じくアメリカからの要請だったということが見え見えになった形だ。

北朝鮮が日本人を拉致し、韓国が竹島を占拠し、ロシアが北方領土に軍事関連の施設を建設し、中国が尖閣諸島や小笠原諸島を我が物顔で航行するのも、すべて日本国憲法の9条が戦争放棄を謳ったがためである。
憲法9条が日本を守っているのではなく、憲法9条があればこそ周辺諸国が日本へちょっかいを出す動機を与えているのである。

そこで、中国(中華人民共和国)が周辺諸国にちょっかいを出したことがどれほどあったのかを調べてみた。
いろいろあるんですねそれが。
ちなみに日本共産党が「中国と戦争になるなんてでたらめですよ」と言っているが、大きな間違いであることは歴史が証明している。
ひとつ例をとってみよう。
みなさんと一緒に考えたい。

1975年4月にサイゴンが陥落してベトナム戦争は終結した。
南北ベトナムは統一し、1976年7月にベトナム社会主義共和国が成立。
カンボジアでポル・ポトの独裁による無差別虐殺がおこなわれていた。ベトナムはこれを打倒するために侵攻しカンボジア内戦(カンボジア・ベトナム戦争)をおこす。

時はさかのぼるが、ベトナム戦争(南北ベトナム)当時カンボジア領内には北ベトナム軍への補給基地が設けられていた。余剰米を北ベトナムに輸出していたわけだ。
アメリカは戦争継続のためにカンボジアに親米的な政権を作る必要があった。
シハヌーク国王がモスクワと北京を訪問中に、カンボジア議会は国家元首の権限をシハヌークから取り上げロン・ノル将軍に臨時の権限を与え軍事政権を建てたのが1970年3月。
アメリカはロン・ノルを支持し後ろ盾となって権力移譲の有効性を強調する。
つまりこの時点で、カンボジアのロン・ノル政権は北ベトナムの敵となったわけだ。
ロン・ノルは北ベトナムを激しく批判し、カンボジア国内のベトナム系住民が集団虐殺されたりした。
ロン・ノルはまた、シハヌーク国王の復権を求める国民の声の高まりからアメリカ軍に対してカンボジア侵攻を許可した。
アメリカ軍はカンボジアの農村部や地方都市などを空爆し数十万人の死者を出した。投下された爆弾は、太平洋戦争における日本への投下量の3倍に及んだとされている。
このことから、農民の人口が急激に減少するとともに農業インフラが徹底的に破壊された。
大規模な飢餓が国民を襲う。
反ロン・ノル勢力であるクメール・ルージュ(共産主義)が活動を強める。
クメール・ルージュの後押しをしたのは中国だった。

1972年1月、アメリカはロン・ノルを支援するために南ベトナムに派遣していた軍の一部をカンボジアへ侵攻させインドシナ戦争を拡大させる。
つまりアメリカの支援を受けたロン・ノルと、中国からの支援を受けたクメール・ルージュとの代理戦争だったわけである。
しかし1973年にアメリカ軍はベトナム(インドシナ)から撤退する。
アメリカの後ろ盾を失ったロン・ノルは国外へ逃亡し、1974年にはサイゴン陥落によってベトナム戦争も終結する。

共産クメール・ルージュは首都プノンペンを陥落させ、国名を民主カンプチアに改称する。
首都プノンペンにはアメリカによる空爆時に多くの国内難民が集まっており、食糧不足が深刻化していた。
クメール・ルージュの幹部だったポル・ポトが「都市住民の糧は都市住民自身に耕作させる」として、都市に居住していた資本家、技術者、学者などから一切の財産・身分を剥奪し、郊外の農村に強制移住させた。
彼らは農民として農業に従事させられ、多くが「反乱を起こす可能性がある」という理由で処刑された。
反乱の首謀者になる可能性があるクメール・ルージュ内部の人間も殺された。
革命の成功を知り、国の発展のためにと帰国した留学生や資本家も、殺害された。
また、子供は親から引き離して集団生活をさせ、幼いうちから農村や工場での労働や軍務を強いた。

一方、ベトナム民主共和国は社会主義としてソ連との関係を強化したが中ソ対立の関係で、中国と関係が深いポル・ポト政権と対立していた。
1978年1月、ポル・ポトはベトナムの農村に攻撃をしかける。
1978年5月、ベトナムは、カンボジアからの難民をカンプチア救国民族統一戦線 (KNUFNS) として組織し、ヘン・サムリンを首相に擁立して打倒ポル・ポトを掲げ、KNUFNSを先頭に立て民主カンプチア領内へ侵攻した。
1979年1月、ベトナム軍はプノンペンを攻略し、クメール・ルージュ体制は崩壊、ベトナム軍はポル・ポト一派をタイ国境近くの山林まで駆逐した。そして親ベトナムのヘン・サムリン政権が樹立された。
1979年2月、中華人民共和国の中国人民解放軍がカンボジア侵攻の報復としてベトナムを攻撃した(中越戦争)。中越戦争に投入されたのは北部出身の将兵であった一方、カンボジアに侵攻したベトナム軍は、旧ベトコンと旧政府軍からなる南部の兵士が主力となった。しかし、戦争に慣れ、士気・錬度が高く、ソ連から軍事援助を供与され、さらにアメリカ軍が南ベトナムに残した大量の兵器を有するベトナム軍に中国人民解放軍は惨敗し、3月には撤収した。


以上が第三次インドシナ戦争のおおまかな歴史である。
ここで注目しなければならない点がいくつかある。ソ連(当時)が具体的な軍事行動に出ていないという点。そして、中国人民解放軍が軍事行動に出たのは1979年2月のことであり、しかもベトナム軍の攻撃に耐えかねて1か月足らずで撤退しているという点。アメリカは暴れるだけ暴れてさっさと逃げ出しているという点である。
アメリカは民主国家だから議会の承認を得ないと何もできない。おそらくカンボジアにせよ南ベトナムにせよ、議会が撤退を決めたのだろうと思われる。
しかし中国の場合、人民解放軍というのは共産党の軍隊であって、独裁する一党が決定したことは誰の承認がなくても行動できるという違いがある。
そして、強力な武器の前には意外と弱いという面も世界に知らしめてしまった。

このことは中国共産党自信が骨身に沁みたはずであって、子飼いの番犬をよその犬にけしかけても、やっつけられてしまう恐れがあることを知ってしまっている。
それにつけてもベトナム軍の何と強いことか。

こうした近代史を深く理解しておかなければ「いま何が進められているのか」が見えて来ない。
紛争はどのようにして起きるのか。
国家体制で敵対したり同盟を結んだりするバランスはどのように取られているのか。
そうしたことを丁寧に知悉した上で「戦争法」だ「徴兵制」だと叫ぶ必要がある。手抜きをしてはならない。


最後にもう一つ言っておきたい。
中国人民解放軍の兵力は、228万5千人と予備役が約51万人と推定されている。
しかし、ベトナム軍に蹴散らされたように、数だけ集めてもあまり意味がないということで、それは毛沢東の文化大革命で階級制度を壊したことに原因があるという説がある。
だから指揮・命令系統がメチャクチャになっているらしい。
それと、1979年から始まった「一人っ子政策」で36年前から始まっている。だから高級幹部は別だとしても、兵士のほとんどは両親の面倒を看るべき立場にある者ばかりということになる。
その状態で軍隊を作っても、朝鮮戦争の時のような勇猛果敢な働きができるかどうかということだ。

そこまで視野を広げた上で考えたい。安保法制のことを。


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