安倍談話とNPT

戦後70年。
この節目で安倍首相が談話を出す出さないといった論議が一部に上がっている。

その内容は兎も角として(つまり中韓が納得する内容になるか否かは兎も角として、という意味)、「70という数字が中途半端だ」という意見がある。

こうした考えが不足する者共が多すぎるから情けない。

戦争を実体験し、召集令状を受け取ったり身内を見送ったような人々は、戦後70年を迎えることによって年代はすでに90歳代に至っているという意味であって、そうした国民にとって生きているうちの最期の談話になるかも知れないということを理解しなければならない。
これが80年談話まで待つとすれば、すでに実体験として大東亜戦争を体験した人々は(おそらく)日本から去っているだろうと思われる。

だから今年70年目の談話発表は意味合いが重い。私はそう考える。

さらに、中韓両国が謝罪を要求しているが、謝罪と許容は一連のものであり、そのことで未来が拓かれる。
ところが謝罪を要求している両国には、そもそも許す気がない。
許す気がないのに「謝れ謝れ」と言っている。これでは相手が「謝っても意味がない」と考えるのは当然のことだ。
だから安倍談話を出すとすれば、あまり過分な(中韓への)配慮は不必要だと思われる。

河野や村山が謝罪をしても、何の効果もなかったことをこそ語るべき段階に来ている。




少し違う話だが、核拡散防止条約いわゆるNPTだが、最終文書が採択されずに決裂した。
これは核保有国と非保有国との対立が主な原因だったのだが、被爆国日本の提案に対して中国が反対したという面もあった。

日本は核兵器の実態を理解するためにヒロシマ・ナガサキに世界中の人々が来ることが意味ある未来を作るのではないかとした。
これに対して中国は、日本の立場を被害者のごとくにすり替えようとする思惑がある、と非難した。

私はかつて俳優の渡辺謙が、核兵器廃絶を目指す『高校生1万人署名運動』のリーダーである高校生の男女二人に対して「原爆だけが戦争じゃないよ」と吐き捨てたあの場面を強く非難したことがある。
渡辺は確かに硫黄島を舞台にした映画作品の主演を演じたが、彼ら高校生は「戦争」を語っているのではない。「核兵器」を語っているのである。

だから今回決裂したNPTにおいても、「核兵器」を語る者に対して「戦争」にすり替えようとする非論理的な者がいることが決裂の最大の原因だと思う。

「戦争」の是非ならばおよそ世界中の人々が語り合い考え合いしていることだろう。
しかし核兵器の実態はあまりにも知られなさ過ぎている。
だから誰が加害者で誰が被害者だとかといった低レベルなことではなく、正しく原爆を知る、あるいは知識を広めるという作業は意義があることだと考える。


核兵器の実態を知らない連中ばかりが核保有国になっている。(世界で唯一の被爆国は日本だが、逆に核攻撃に踏み切ったのは米国だけだ。米国はその意味では核兵器の実態を他国よりは少しは知っているらしい)
これは危険だと言う他はない。
中国人とはけっこう頭が良い民族だと思っていたが、今回に限っては小学生のようにしか見えなかった。



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