秦氏と朝鮮

木嶋坐天照御魂神社なる神社が京都にあります。読みは「このしまにます あまてらす みたまじんじゃ」となります。
場所は京都市右京区太秦 森ケ東町50番地です。

通称、木嶋神社(このしまじんじゃ)、あるいは蚕の社(かいこのやしろ)と呼び親しまれています。
織物の始祖を祀った蚕養(こかい)神社があるためです。

太秦(うずまさ)という難解な地名には理由があって、ここが秦氏(はたし)のゆかりある土地だからです。
秦氏とは諸説あるのですが、一般的な解釈では古代中国が春秋時代だった頃の王朝の一つで「秦(しん)」という国家がありました。初代皇帝は秦の始皇帝です。
その秦の何百年と続く圧政から逃れた下層民が多くの難民として朝鮮半島へ逃げ延び、馬韓は難民が定住すべく土地を分け与えます。
半島南部にあった辰韓(しんかん)という国がそうで、これが後の新羅(しらぎ)となる地域のことです。
辰韓人は稲作と養蚕をなりわいにしていたそうです。

このことから現代中国もまた「新羅の元である辰韓は、もともと秦人が建てた国家なので中国の属国である」とする公式見解を持っています。
また、古い三韓時代とは「馬韓・辰韓・弁韓」なので、秦の影響を受けた辰韓が中心だととらえています。
ここから前回ご紹介した真徳女王の「三韓統一」につながるのですが、新羅が天下を取った以上、それは必然的に唐の属国になるという宿命はここから来ています。
この稲作技術と養蚕技術を持つ秦の人々が日本へ渡来して京都太秦で蚕を飼っていたという解釈はどこも不自然なものではありません。

秦氏の記録は日本書紀に出て来るのですが、秦の皇室の末裔とされる弓月君(ゆづきのきみ)が多くの民を引き連れて渡来した秦氏の先祖だとされています。
弓月君は百済から亡命して来たのでしたが、新羅の妨害に遭っていったん加羅に仮住まいしたのち、応神天皇の時代に援軍を送って新羅と交戦した上で日本は弓月君らを救出することに成功します。
なぜ新羅の元となる辰韓にいたはずの人々が百済から脱出して来るのか。そして新羅がなぜ彼らを出すまいとしたのか。
彼らの持つ高等な技術が逆に彼らの悲劇を招く結果になって、権力争いの波に翻弄されたからです。
弓月君とは秦の始皇帝の末裔であったことから、それへ付き従う民は高度な絹織物の技術を持っており、日本の皇室はこれを重宝し大切に扱われました。
秦(しん)の末裔であることから秦氏(はたし)と名乗り、それが転じて羽田だとか波多だとかの姓が生まれます。

この一族は養蚕の他にも高度な建築技術や鉱山採掘技術などを有していたために、日本各地へ広がることになって行きます。
ところで、この秦氏という一族はもともと中国の秦から発生した部族だったのかという疑問を呈する人がいます。
明治時代の東洋宗教史家だった佐伯好郎は、彼ら(秦氏)は景教(キリスト教ネストリウス派)のユダヤではないかとする説を唱えました。
ネストリウス派とは古代キリスト教の教派のひとつでしたがエフェソス公会議において異端とされてしまい排斥されたものです。
だから秦国へ脱出した可能性があるのですが、この時代の中東の優れた建築・鉱山・機織りなどの先端技術をアジアへもたらしたのではないかとされているのです。
日本へ招かれた秦一族はその高度な建築技術を持って、幾多の神社仏閣を建設します。
つまり伊勢神宮を始めとする多くの神社にダビデの星(三角形と逆三角形の重なり=カゴメ紋)が残されているのはこういった理由があるからではないかとする説です。

数年前に奈良の唐招提寺が大改装されたことがありました。
その時、日本を代表する大手ゼネコンが多くの宮大工たちを集めたのでしたが、とんでもなく高度な建築技術だったことから愕然としたという話です。
秦氏一族の建築技術とはそういったレベルだったようです。

秦一族は中国の秦から脱出して朝鮮半島の辰韓に落ち着きました。
そこで定住して技術を発展させていれば、今の日本と韓国の立場は逆転していたのかも知れません。
いや、朝鮮族のことだからきっと、もたらされた技術は食い物にするだけで、自分たちのものとして消化吸収し更なる発展を目指すなど最初から無理だったのかも知れません。

この秦氏のことについては、これだけで終わらせるのはもったいなさすぎるので、おいおい第二回・第三回と続けて行きたいと考えています。
今日はこの辺で。
ご機嫌よう。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR