年末選挙

「日本人は忘れやすい民族だ」という定説は当たっているような気がする。
いわゆる戦後教育によって深く考える力を失わされたわけだ。
「北朝鮮がこの世の天国だ」と言われれば(ああ、そうなんだ)と思い、「A級戦犯は国賊だ」と言われれば(ああ、そうなんだ)と思わされて来た国民は完全に日教組の洗脳に呑み込まれていたわけだ。

だから最近の出来事すらも忘れやすくなってしまっている。
分かり易ところでは「発送電分離」という問題。発電事業と送電事業を分離しなければならないという切羽つまった社会問題だったのが、安倍政権になった途端にどこかへ消えてしまった。
消えた年金問題も、当時の野党だった安倍さんが選挙カーの上で「最後の一人まで」と叫んでいた一件はどこかへ消えてしまった。
消費税を増税する見返りとして野田前総理は議席定数の削減を主張していたが、安倍政権では議席の話が出て来ない。
一票の格差は違憲状態だと裁判所から指摘されていたけれど、これも安倍さんは知らん顔で通そうとしている。

これらは全部本物ですよ、どこにも作為的な物はない。
つまり安倍政権が担った2年近くの年月は、多面的な社会の一面だけを補填したに過ぎないわけです。
では民主党政権はどうだったのか。
年金にせよガソリン税にせよ普天間基地の問題にせよ八ッ場ダムのことにせよ、全部「言うだけ番長」でしかなかったのです。何も結果が残せなかった。
その挙句に原発事故を受けて、細野が「被曝基準を引き揚げろ」と言い出し、瓦礫処理にしても放射能汚染物質を全国に輸送させてしまった。素人に政治をさせると国民の未来が犠牲になるのです。
仙石は自衛隊を「暴力装置」だと言い、安倍は「集団的自衛権」を主張する。
こうした両極の哲学に対して、我々国民は忘れ易い性質をいつまで持ち続ければ良いのでしょうか。

つまりこの国には、手を付けるところは一つしか残っていないんです。
特別会計です。
これこそが霞が関の役人と経団連が癒着している「日本の余裕点」なんです。
ここにメスを入れない限り日本の本質的な問題解決には至らないのです。
徳川幕府政権に終わりを告げた明治維新は、新たに「構造汚染」という闇を産んでしまった。
だからこの「構造汚染」を処理することで「第二の維新」が成立するでしょう。
ただ、これを進めるならば、「原発=核燃料サイクル計画」という問題に直面することになるし、現代社会を構成して来た格差社会が根本から崩れ去ることになる。抵抗勢力はそれだけ強いことになる。
だから戊申戦争のような血にまみれた戦いが必要になってしまう。

私は革命を主張しているのではなく、あくまでもこの日本の構造を産んでいる骨組みが「簡単には壊せませんよ」と言っているだけだ。
民主国家を標榜して誕生したはずの日本が、実は民主国家ではなかったという皮肉。
しかし我が国は民主主義を手放しては生きられない。
だから時間と手間をかけて、じっくりと民主的な改革を起こさねばならない。
決して共産主義や社会主義のような短絡的な「近道主義」に走ってはいけない。
そのためには、選挙を有権者の「チャンス」ととらえて投票所に足を運ぶことしかない。
税金の無駄だ解散の大義だとか言っている暇があれば、まず自分の足で投票所に出向くことでしかない。
年末が忙しいからと言って選挙を否定するのであれば、自由民権運動をやった先人に申し開きが立たない。

かつて勤めた会社の後輩がこう言った。「自慢じゃないですが、私は一度も投票に行ったことがありません」
そこで先輩である私はこう答えた。
「君の日本語の使い方は間違っている。『自慢じゃないが』と言うところは『恥ずかしながら』に改めるべきだ」

アフガンの大統領選挙には、カイバル峠を何日もかけて超えて来た有権者たちが投票に訪れたと聞く。
恥ずかしくはないのか日本人よ。



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