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デジャブ

私の両親および諸先輩たちが戦前・戦中の世代だとすれば、それに比較して我々世代は「戦争を知らない世代」だということになる。

しかし私たち世代は、他の世代が知らない(もしくは深い関心がない)環境で育っている。それはベトナム戦争でありチェルノブイリ原発事故であり、その事故を契機として始まったソ連のペレストロイカとハンガリーのヨーロッパ・ピクニック、そして東西ドイツの統一とルーマニア、チェコスロバキアの民主化革命とソビエト連邦の解体。ものすごいスピードで世界が変化していた時代が我々が育った環境でもあったわけだ。

日本は島国だし日米安保で守られていたから、無関心な国民もそれなりに暮らして行けた。しかし、この第二次世界大戦以後の世界(特に欧州)の変化をじっくり知っておかなければ次にやって来る未来を見誤ることになりかねない。



レーニン・スターリン・マレンコフ・フルシチョフ・ブレジネフ・アンドロポフ・チェルネンコ・ゴルバチョフと続いたソビエト連邦共産党の一党独裁書記長は、1980年代後半からペレストロイカ(改革・再構築)が進められていた。1985年に党書記長に就任したゴルバチョフは1986年4月に発生したチェルノブイリ原発事故による放射能汚染が東ヨーロッパ各国へ広がったことからグラスノスチ(情報公開)をせざるを得なくなっていた。

翌年1987年のロシア革命70周年記念の軍事パレードの際「民主化・ペレストロイカ加速」と書かれた大看板が国営百貨店に掲げられ、国民の間に広く浸透していった。

1970年代のブレジネフ政権のころから政策破たんは始まっていた。アフガニスタンへの軍事介入で米ソ関係が悪化し、その後を継いだアンドロポフもチェルネンコも病弱で短命だった。ゴルバチョフが政権を掌握した直後に起きた原発事故でペレストロイカとグラスノスチを強行させたが、経済政策は守旧派と改革派との対立で行き詰まって行く。米国のレーガノミクスによる為替レートの急変に共産主義が弾力的に対応できなかったという理由がある。

ゴルバチョフが書記長に就任後、中央委員会の書記に就任したのが後に初代大統領となるエリツィンだった。エリツィンはゴルバチョフのペレストロイカの進捗が遅すぎると激しく非難し急進改革派のリーダーとして活動した。

エリツィンは1990年5月にロシア共和国の最高会議議長に就任しソ連共産党を離党する。

1991年1月。ソ連はバルト3国へ軍事介入し死者を出した。そのことから軍事介入に反発するソ連国民がゴルバチョフの退陣を要求し始める。1991年6月におこなわれたロシア共和国大統領選挙でエリツィンは57.3%の得票率を得て当選するが、これを良しとしない保守派が「ソ連8月革命(1991年8月19日)」と呼ばれる軍事クーデターを起こす。

ゴルバチョフはスターリン以来の硬直した計画経済を改めようとしたが、西側に融和的なゴルバチョフの政策が売国的行為だとする批判が守旧派の中に生まれていたにも関わらず、エリツィンはより加速させた。

ソ連の国民世論はエリツィンら急進改革派支持に傾いていった。1990年4月にはエリツィンら急進改革派が結成した地域間代議員グループに所属するガブリール・ポポフがモスクワ市長に、1991年6月にはアナトリー・サプチャークがレニングラード市長に当選した。また同年6月20日のロシア大統領選では、保守派が擁立したニコライ・ルイシコフ前ソ連首相がエリツィンに惨敗したことも保守派を追い詰め、クーデターを引き起こすきっかけとなった。

1991年8月18日。ワレリー・ボルジン大統領府長官ら代表団がクリミア半島フォロス(ロシア語版)の別荘で休暇中のゴルバチョフに面会を要求、ヤナーエフ副大統領への全権委譲と非常事態宣言の受入れ、大統領辞任を迫ったがゴルバチョフはいずれも拒否、別荘に軟禁された。

国家非常事態委員会は8月19日の午前6時半にタス通信を通じて「ゴルバチョフ大統領が健康上の理由で執務不能となりヤナーエフ副大統領が大統領職務を引き継ぐ」という声明を発表する。反改革派が全権を掌握、モスクワ中心部に戦車部隊が出動しモスクワ放送は占拠された。(当時、アナウンサーは背中に銃を突きつけられた状態で放送をしていたという。)

午前11時になるとエリツィンロシア共和国大統領が記者会見を行い「クーデターは違憲、国家非常事態委員会は非合法」との声明を発表する。エリツィンはゴルバチョフ大統領が国民の前に姿を見せること、臨時人民代議員大会の招集などを要求、自ら戦車の上で旗を振りゼネラル・ストライキを呼掛け戦車兵を説得、市民はロシア共和国最高会議ビル(別名:ホワイトハウス)周辺にバリケードを構築した。また市民は銃を持ち火炎瓶を装備、クーデター派ソ連軍に対し臨戦態勢を整えた。クーデターには陸軍最精鋭部隊と空軍は参加しなかった。

午後10時をすぎると戦車10台がエリツィンサイドに寝返った。1万人の市民がロシア最高会議ビル前に篭城した。KGBのアルファ部隊は保守派からロシア最高会議ビル奪取命令を下されたがそれに従わなかった。北部ロシアの炭鉱でも改革派を支持する労働者によるストライキが発生し、エストニアでは独立宣言が出された。レニングラードでは改革派のアナトリー・サプチャーク市長が市のコントロールを奪回した。

翌8月20日12時頃、ロシア政府ビル前に市民10万人が集結し「エリツィン!、ロシア!、エリツィン!、ロシア!」のシュプレヒコールをあげた。労働者ストライキが全国で発生し、市民デモも多発。一部では流血事態が発生した。21日の午前0時になると戦車隊がロシア政府ビルへ前進、市民と衝突し火炎瓶を装甲車に投げつけるも、装甲車に飛び乗った市民を振り落とす等で3名が死亡する。午前4時頃、軍とKGBの戦車隊の一部がバリケードの突破で小競合いとなる。ロシア側は発砲を許可し戦車2両を破壊、10数名の市民が死亡した。午前5時に国家非常事態委員会は戦車部隊の撤収を決定。交渉により軍は当面事態を静観すると確約する。午前11時頃、ロシア最高会議は国家非常事態委員会に対して夜10時までに権力の放棄を求める最終通告を行う。

午後1時53分、エリツィンはクーデターが未遂に終わったことを宣言した。午後2時になると国家非常事態委員会のメンバーがソ連国内から逃亡を始め(プーゴ内相は拳銃・アフロメーエフ元参謀総長は首吊り自殺)、エリツィンはメンバーの拘束指令を発する。午後4時20分にはヤゾフ国防相が全部隊のモスクワへの撤退命令をニュース放送で行う。午後4時55分にロシア代表団がクリミア半島に到着してゴルバチョフと面会、午後9時にはモスクワ放送が復活した。

8月22日の午前2時55分に攻撃を避けるための人質としてクリュチコフを帯同したゴルバチョフが搭乗したアエロフロートの特別機がモスクワのブヌコヴォ空港に到着した。クーデターの関係者は逮捕されたが、その首謀者たちはゴルバチョフの側近だったため、皮肉にもゴルバチョフ自身を含むソ連共産党の信頼は失墜していた。午後0時にエリツィンはクーデターに対する勝利宣言を行う。これには市民20万人が参加したが、ゴルバチョフが姿を見せることはなかった。夕方にゴルバチョフは外務省のプレスセンターで記者会見を行う。同日夜になると、モスクワ中心街で共産党の活動禁止を要求するデモが行われた。



少し長くなったが、以上がソビエト連邦崩壊のあらましであり、モスクワの赤の広場に戦車部隊が走り回る映像は、中国の天安門事件とともに強く脳裏に焼き付いている。

これを契機として東ヨーロッパの各地で流血・無血の民主化革命が起き、それはアラブ諸国にも波及した。アメリカCIAの工作だ何だと噂されてもいるが、我々世代が育った背景にはそうした世界の激動があったことになる。

そして、注意深く見て来ると、現代社会のシナリオとそっくりではないかということ。つまり旧ソ連のグラスノスチ(情報公開)というものは、今で言うインターネットのことだ。さらに、旧保守派と改革派が激しく対立する構造は、現在の韓国の姿であり中国共産党の姿でもあるわけだ。あるいは台湾にもマレーシアにも言えることだろう。

「異端は異教より憎し」という言葉がある。他人との争いよりも家族同士の争いの方がより深刻化するという意味だ。

帝政ロシアがソビエト連邦共和国になりロシア連邦へと変化した。その内容を詳しく精査することによって、現在の世界が置かれている状態が浮かび上がって来る。

中国人民元の紙幣には、いまだに毛沢東の肖像画が描かれているが、あれがやらかした「大躍進政策」と「文化大革命」でどれだけの被害を出したのか。ついこの間のことなのに、世界は知らん顔をしすぎる。

現代史はもっと注意深く観察しなければならない。世界遺産だ何だと浮かれている場合ではない。



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