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台湾とは

中華人民共和国(いわゆる中国)と中華民国(いわゆる台湾)はそれぞれ独立した政府を持っている。「一つだ」「いや個別だ」というのは各々の主張だからどちらが正しいわけでも誤りなわけでもない。しかし「実効支配」という意味ではすでに台湾には民主主義が根付いていて選挙で総統が選ばれて来た。この事実は覆すことはできない。

台湾が日本に割譲されたのは1895年4月の日清戦争後の講和会議において調印された馬関条約に基づく。日本は1895年5月、台湾総督府を設置し植民地統治を開始する。初代総督は樺山海軍大将。その後、児玉第4代総督のもとで民生長官に就任した後藤新平が土地改革やライフラインの整備に着手し学校教育の普及をはじめとする各産業の近代化を推進する。

1945年8月、日本はポツダム宣言を受諾し無条件降伏を受け入れる(調印は9月)。日本の降伏にともなって中国大陸では主権を争う共産党軍と国民党軍の内紛が激化し、ソ連の加勢を受けた共産党軍が有利に運ぶ。年代は前後するが朝鮮戦争における北朝鮮は中国の、中国共産党軍はソビエトの、それぞれ加勢を受けた結果であって自分だけの実力ではない。中国の軍隊のことを人民解放軍と呼んでいるが、中国人民を何から解放するかと言えば、それが国民党軍からだったわけであり、人民解放軍とは共産党の私的な武力部隊なのである。国民の軍隊ではなくあくまでも党の軍隊ということだ。国民党軍は台湾に逃れ、日本統治時代の建物に棲みついた。ここから台湾の二層構造が明確になってくる。

日本は連合軍による占領統治を受けたが、共産主義の拡大による朝鮮戦争などの諸問題によって1951年にサンフランシスコ平和条約による独立を果たした。しかしこの講和条約には中華人民共和国も中華民国も参加しなかった。

その後、日本はアメリカの仲介により、台湾のみを実効支配する中華民国政府と二国間講和条約の交渉を開始。1952年4月、日華平和条約に調印し日本と台湾の国交が回復する。同条約議定書で中華民国(国民党)の蒋介石総統は日本に対する損害賠償請求権を放棄することで多くの日本国民から好ましく受け取られた。

1957年に岸信介内閣総理大臣、1964年には元首相の吉田茂、1967年に佐藤栄作首相、らがそれぞれ台湾を訪問し蒋介石総統と会談した。

1964年の吉田茂元首相の訪台は池田勇人首相の親書を携えてのことであり、これを契機に「日華共同反共」などが盛り込まれた「中共対策要綱」なる文書(いわゆる吉田書簡)が極秘に交わされた。さらに、同年3月には、外務省が、台湾の国民政府との断絶は国益に反する等の「中国問題に関する見解」を発表。同年7月には大平正芳外相が訪台し、「日本は中華民国が反攻復国に成功することを非常に望んでいる」と表明した。

これまで戦後から国連の常任理事国を務めた台湾は、中国と比べて国際的に認知されていた。しかし、1970年頃からベトナム戦争を背景とした中国と米国との接近、西側主要国(英仏伊加)と中国との国交正常化など、国際社会の中で中国が立場を顕示しはじめた。また、日本国内でも一部の親中派議員による「日中国交回復促進議員連盟」発足等の動きも見られるようになる。

1972年のニクソン訪中は日本に衝撃を与え、同年9月29日、田中角栄政権は、中国大陸を支配する中華人民共和国政府を「中国の唯一の合法政府」と承認し、国交を樹立した(日中国交正常化)。その際、日本は、日中共同声明に日華平和条約の遡及的無効を明記することに応じない代わりに、大平正芳外相が「日華平和条約は存続の意義を失い、終了した」との見解を表明。これに対し、中華民国外交部は即日、対日断交を宣言した(日台断交)。

日台両国は、国交断絶から間もない1973年初頭、民間交流を従来通り維持させるため、実務的な窓口機関を相互に設置した(日本側は「財団法人交流協会」。台湾側は「亜東関係協会」。1992年、亜東関係協会東京弁事処は台北駐日経済文化代表処に改称)。続いて同年3月には、日本国会議員150名余りが参加して日華関係議員懇談会(日華懇)が発足(1997年、超党派の日華議員懇談会に改組)。こうして、日台間の非公式実務交流の基本的枠組みが形成された。
(2009年の小沢一郎訪中団483名が中国北京を表敬訪問したことと合わせて記憶しよう)

1994年5月、李登輝総統は、『週刊朝日』に掲載された小説家の司馬遼太郎との対談で、日本統治時代を「日本が残したものは大きい。批判する一方で科学的な観点から評価しないと歴史を理解することはできない」と評した。李総統が1999年日本語で出版した『台湾の主張』はベストセラーとなって山本七平賞を受賞した。

1998年11月に江沢民国家主席が来日した際、小渕恵三首相はクリントン米大統領が表明した「三つのノー」(台湾独立反対、「二つの中国」反対、台湾の国連加盟不支持)の表明を拒絶した。

1999年9月の台湾大地震では日本が国際緊急援助隊を一番手で送り、最大規模の援助活動を実施した。2000年8月には、石原慎太郎東京都知事の提唱で、アジア大都市ネットワーク21が発足、北京市と台北市が同時に加盟した(北京市は2005年に脱退)。2000年12月、台湾高速鉄道計画で、日本企業連合による「新幹線システム」導入が決定した(2007年開通)。李登輝元総統来日の支援運動が契機となって、2002年12月には日本李登輝友の会が設立され、ここで発祥した台湾正名運動は台湾本国にも波及した。

(一部 Wikipedia 引用)



以上のように、なかなか複雑な歴史を持っている台湾なのだが、周辺から眺めるのではなく、台湾の人々が自分はなに人と思っているのかが本質的に重要になっている。

1945年8月の日本の敗戦によって連合国の一員だった中華民国(台湾を含む中国大陸全土を統治していた国民党政府)が台湾を中国の一部だとして「台湾省」にした。その後国民党軍と共産党軍の戦闘になって国民党は台湾へ脱出するのだが、「ひとつの中国」というセリフは、中国共産党にとって「台湾も含むすべてが共産党のもの」だという意味になり、国民党にとったら「もともと台湾も含むすべては国民党のものだった」という意味にもなってくる。それに対して「もう大陸のことなどに構うな。台湾は独立した一つの国家だ」という意味で「ひとつの中国」を否定する組織も現れた。そこに「本省人」と「外省人」の区別が必要になって来る。

東日本の大震災の際に、台湾から多額の義援金が寄せられたと伝えられたが、すべての台湾の人々が親日家であるがごとき報道は「フェイク」である。大きく分けて台湾は二層構造になっていて、中国共産党寄りだった馬英九は南京虐殺や慰安婦問題などにこだわっていた。台湾南部には慰安婦像も建っている。シャープの技術が台湾の財閥に買収されたが「台湾なら良いじゃないか」とは思わないこと。政権によってあっちへ行ったりこっちへ来たりする国家だということを忘れないようにしよう。

そして二層構造の台湾人の親日家は、心の底から親日だという点も忘れてはならない。

北京の「熊のプー」は米中経済戦争を仕向けられて青息吐息になっている。上海株式市場も暴落を始めた。中国の札束外交によって台湾との国交を断絶した国は蔡英文総統就任以降だけで5ケ国(ドミニカ、ブルキナファソなどの開発途上国)。これらの弱小国はプーがよろけると途端に台湾を見直すかも知れない。

そして日本の中にもいる。中国寄りと台湾寄り。地方自治体にもそのどっちかを選んでいる自治体がある。中国の領事館を置いているような自治体は台湾とつながりを持つことを嫌う。新聞や放送局においてもそうした選択はあるだろう。

世界は複雑なのさ。「友愛の精神」だけで外交ができると思ったら墓穴を掘りまっせ。



しかし北朝鮮のガキデカは、本当にヤバくなって来た。




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Author:old comber
硬派と軟派の二重人格がまき散らす猛毒 ショック死しても知らないよ

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