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朝鮮の正しい理解

日本がまだ徳川幕府の時代だったころ、中国大陸ではイギリスによる阿片戦争などで植民地化が進められていた。東南アジア諸国と交易をしていた日本だったが、実際にはそれらの国はオランダやスペインなどによって占領されていた。現地人は奴隷労働を強いられ、農産物や地下資源などは欧米列強の本国へ送られていた。

そのために江戸時代後期の日本には外国からの侵略という脅威論が高まっていたのであって、豊臣秀吉の時代の「バテレン追放政策」とも無関係ではなく、連綿とつながっている話だった。

アメリカでの南北戦争(1861~1865)の終結を受けて膨大な武器弾薬が武器商人(トーマス・グラバーなど)の手元の不良在庫となったことから日本国内の討幕運動は「平和革命」ではなく「軍事革命」にさせられた経緯がある。

薩長軍が北海道の函館まで追いかけて幕府軍を徹底的に殺し尽くそうとしたのも、その後の西南の役で薩摩兵士が大量に殺されたのも、外国の武器商人の利益になるからだった。そうやって消耗しきった日本の新政府は簡単に乗っ取ることができるという作戦だった。

しかし明治新政府はアメリカやフランスと不平等条約を結ばされる一方で、清国の属国だった朝鮮と修好条約を結んだ。

1882年(明治15年)、壬午事変(じんごじへん)が勃発する。これは朝鮮国王だった高宗の王妃「閔妃(びんひ)」の近代化政策で財政が悪化したことから旧朝鮮人兵士への俸給が滞ってしまったことから起きた反乱であり、朝鮮の国政を援助していた日本を攻撃対象としたものだった。国王は高宗だったが、事実上の行政は閔妃が握っていたのである。

日本人の指導の下に近代化を図っていた閔氏政権だったが、これに反発する旧式軍隊らが民衆も巻き込んで日本公使館を襲撃し多数の死者を出した。群衆は王宮にも乱入するが閔妃は脱出する。反乱軍は閔氏政権を倒し、興宣大院君(閔妃の夫・高宗の父親)を担ぎ出して大院君政権を復活させる。

日本と清国はそれぞれ軍艦と兵士を派遣して、反乱軍を鎮圧。宗主国として清国は大院君を拉致して中国の天津に連行し閔氏政権を復活させる。

済物浦条約(さいもっぽじょうやく)にて賠償金と公使館警護のための日本陸軍の駐留などを日本は認めさせる。清国は朝鮮政府に外交顧問を派遣し袁世凱(えんせいがい)が事実上の国王代理となって実権を掌握する。袁世凱は3000名の清国軍兵士を王宮に駐留させ、朝鮮の「事大主義」は日本から清国へと傾いてゆくことになる。

この事件を契機に日清両国の対立は決定的となって、1894年の日清戦争へとつながってゆく。

確認です。当時はまだ朝鮮は清国の属国として「王」はいたが「皇帝」はいない状態だったのであって、完全な独立状態にはなかったことが読めて来る。その上で大院君とかせがれの嫁の閔妃とかが権力闘争をやっていたのであって、日本にしてみれば迷惑この上ない乱れた国だった。

日本は明治維新をどうにか成功させたものの、欧米やロシアが牙を向けて来ることは十分に予測していたから「朝鮮の地政学的な特性は軽視できない」とする意見で日本の議会は一致していた。だから伊藤博文ひとりが反対しても日韓併合の方向に切られた舵は戻せなかったということ。

1894年(明治27年)、朝鮮国内で甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)が起こる。これは慶州出身の崔済愚(チェ・ジェウ)が興した排外的な新興宗教だった「東学」が原因だった。

朱子学とも天主教(=カトリック)とも異なる朝鮮独自の思想体系であって、王侯貴族・儒学者らによるものと、両班・中人らによるものとの対立構造にあった朝鮮において、一般大衆の存在を主張するために呪文を唱え霊符を飲めといった幼稚な思想が時間と財力を必要とする儒学に対して教理の単純さが民衆に受け入れられ広がっていた。この信者らのことを「東学党」と呼んだ。甲午農民戦争のことを「東学党の乱」と言い換えることがある。簡単に言ってみれば農民一揆だったわけ。

1894年、全羅道古阜郡の役人が税の横領を犯し、地元の行政長に抗議に出向いた農民が逆に逮捕されてしまう。このことから東学党の二代目教祖が信者を引き連れて武装ほう起。農民戦争に発展し全羅道全域へ波及する大混乱に発展。

これに驚いた閔氏政権は清国に援軍を要請。天津条約に基づき、日本と清国はそれぞれ朝鮮出兵を通告する。日本は公使館警護と在留邦人の保護を名目に派兵して清国軍と対峙する。

閔氏政権は農民側の提案を受け入れ、自治権を認める譲歩に出たが、日清両国はそれでは収まらない。日本は朝鮮に対して、「朝鮮の自主独立を侵害」する清軍の撤退と清・朝間の条約廃棄(宗主・藩属関係の解消)について3日以内に回答するよう申入れた。この申入れには、朝鮮が清軍を退けられないのであれば、日本が代わって駆逐する、との意味も含まれていた。これに朝鮮政府は「改革は自主的に行う」「乱が治まったので日清両軍の撤兵を要請」と回答。7月23日午前2時、日本軍混成第九旅団(歩兵四箇大隊など)が郊外の駐屯地龍山から漢城に向かい、「〔民間〕人ヲシテ」電信線を切断し、歩兵一箇大隊が朝鮮王宮を攻撃し占領した。日本は国王高宗を手中にし、大院君を再び担ぎだして新政権を樹立させた。そして新政権に牙山の清軍掃討を日本に依頼させた。そして25日に豊島沖海戦、29日に成歓の戦いが行われた後、8月1日に日清両国が宣戦布告をし、日清戦争が勃発した。

近代化された日本軍は、近代軍としての体をなしていなかった清軍に対し、終始優勢に戦局を進め、朝鮮半島および遼東半島などを占領する。1895年(明治28年)4月17日、下関で日清講和条約が調印され、戦勝した日本は朝鮮の独立を清に認めさせた。また、清から領土(遼東半島・台湾・澎湖列島)と多額の賠償金などを得ることになった。しかし遼東半島に関しては仏・独・露の3国が干渉してきたためにこれを放棄。

清国は巨額の賠償金を作るためにロシアに救けを求め、その引き換えに遼東半島にロシア軍が常駐することになる。騙されたと知った日本は、イギリスの協力を得て日露戦争へと突き進んで行く。

一方、独立を勝ち取ってもらった「棚ボタ」の朝鮮は、李氏朝鮮をやめて大韓帝国と名乗ることになる。「大」がどこから持って来られたものかは誰も知らない。

清国は日清講和条約(下関条約)によって朝鮮の宗主権を放棄したのが1895年4月17日。そのわずか15年後の1910年(明治43年)に韓国は日本に併合される。

この15年の間に何が起きたのか。それが遼東半島へのロシア軍の南下だった。

つまり長い朝鮮の歴史を見れば、身分階級による国内での不満が満ちていたつまらない国が常に国内紛争を起こしていたのに対して、その地政学上の戦略要素を見抜いていた列強各国が「隙あらば」と狙っていた構造になっている。それが朝鮮半島の歴史なのだ。

日清戦争直後の朝鮮半島では、大日本帝国を後ろ盾とする改革派の勢いが強まったものの、その後大日本帝国が西欧列強による三国干渉に屈服し遼東還付条約を締結したことで、朝鮮王室は列強同士の牽制による独立維持を目指し、帝政ロシアに接近した。そのため、政争が過激化した。この時期に閔妃暗殺が起きている。1896年(明治29年)に親露保守派が高宗をロシア公使館に移して政権を奪取、高宗はロシア公使館において1年あまり政務を執り行う異常事態となった。このことから「何のための独立だったのか」といった非難が殺到した高宗は宮殿に戻ると同時に皇帝に即位して国号を朝鮮国から大韓帝国と改めた。これは清朝や大日本帝国あるいはロシア帝国と肩を並べるためだった。

ロシアは清国との間に「旅順港・大連港租借に関する条約」を1898年に交わし不凍港を得るための南下政策が成功した。それにより韓国駐在の価値がなくなってヒトもカネも引き揚げられる。

せっかく「帝国」になり「皇帝」になった高宗だったが、遼東半島のロシア租借が韓国の価値を無くしてしまったことになる。

絶対君主制を作り上げようとしていた高宗は、国内の「独立運動家」や「改革派」の不満の的になっていた。

イギリスの旅行作家イザベラ・バードはこのように書き残している。「朝鮮人官僚界の態度は、日本の成功に関心を持つ少数の人々をのぞき、新しい体制にとってまったく不都合なもので、改革のひとつひとつが憤りの対象となった。官吏階級は改革で「搾取」や不正利得がもはやできなくなると見ており、ごまんといる役所の居候や取り巻きとともに、 全員が私利私欲という最強の動機で結ばれ、改革には積極的にせよ消極的にせよ反対していた。政治腐敗はソウルが本拠地であるものの、どの地方でもスケールこそそれより小さいとはいえ、首都と同質の不正がはぴこっており、勤勉実直な階層をしいたげて私腹を肥やす悪徳官吏が跋扈していた。このように堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、これは困難きわまりなかった。名誉と高潔の伝統は、あったとしてももう何世紀も前に忘れられている。公正な官吏の規範は存在しない。日本が改革に着手したとき、朝鮮には階層が二つしかなかった。 盗む側と盗まれる側である。そして盗む側には官界をなす膨大な数の人間が含まれる。「搾取」 と着服は上層部から下級官吏にいたるまで全体を通じての習わしであり、どの職位も売買の対象となっていた。」(講談社出版『朝鮮紀行』)

この人物の洞察力は非常に高い。ただの旅行者がここまで見抜くのは不可能に近く、天才と呼んでも良いだろう。つまりここに韓国・朝鮮の反日の原点がある。

その大韓帝国の混乱ぶりを見たロシアは遼東半島だけで満足できなくなった。

ロシアは、1902年4月に清国と満州還付に関する露清条約を結ぶものの、対日強硬派のアレクサンドル・ベゾブラーゾフやエヴゲーニイ・アレクセーエフの勢力が強まることで、逆に次の「新方針」を決議して、譲歩政策を撤回した。(一)満州から撤兵せず更に増兵して満州をロシアの手に入れること。(二)外国人を満州に侵入せしめないこと。(三)満州における我が軍事上の利益を掩護するため朝鮮に哨所を設けること。

この新方針が米英を刺激しロシアの南下を妨げるべく日本に肩入れをして来た。ロシアは遼東半島と満州に夢中になっていたことから「韓国はどうでも良い」と思っていて朝鮮半島の支配権を大日本帝国に許していた。

そこで1905年(明治38年)に第二次日韓協約を大韓帝国と締結する。この協約によって大韓帝国の外交権はほぼ大日本帝国に接収されることになって、事実上の保護国となった。

高宗は「条約締結は強制であり無効である」と抗議をする。しかし締結時に学部大臣だった李完用も閣議で『わが国の外交は変幻きわまりなく、その結果日本は2回の大戦争に従事し、多大の犠牲を出して、ようやく今日における韓国の地位を保全したのだから、これ以上わが国の外交が原因で東洋の平和を乱し、再び危地に瀬するような事は、その耐えざる所』とし、日本との協約締結を肯定している。

1907年(明治40年)、高宗は第2回万国平和会議に密使を派遣した(ハーグ密使事件)。しかし第二次日韓協約は当時の帝国主義国間で認められた合法な国際協約であったため、この訴えは第2回万国平和会議から不当なものとして拒絶された。この事件に対して、日本から抗議がなされ、高宗はハーグへの密使事件は自分の知らなかったことであると訴えるが、日本との関係を重視する李完用首相や官僚たちの要求により、7月20日には退位することになった。



ずいぶん長い記事になってしまったが、これが朝鮮半島の歴史であり、日韓併合までの経緯とロシアの悪行の記録でした。

朝鮮の諺に「春窮麦嶺越え難し」というものがある。これは秋の収穫の7割を両班階級に取り上げられた朝鮮の農民が、残り3割で冬を越し、春麦の収穫時期には蓄えが尽き果てて、餓死者が出る。この時期のことを「春窮」と呼ぶらしい。

なお、親日発言をした上記の李完用首相は現在の韓国歴史教育で「国賊」とされている。客観的で冷静な思考を拒否するのが朝鮮のやりかたなのである。「帝国の慰安婦」の著者がどのような辱めを受けたか、記憶に新しい。

北朝鮮は日本に対してストックホルム合意を反故にしてるでしょ? 韓国は日韓慰安婦合意を反故にしようとしている。
だから相手にしてはいけない民族なのよね。歴史が証明してるんだから。
アメリカや中国が振り回されようとも、日本は手を出しちゃダメなのよ。汚れた手がきれいになるには何世紀もかかるよ。

お疲れさまでした。






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