核兵器禁止条約 2

【閲覧注意】今回は少々衝撃が強いので、当り障りのないものをお求めの向きはご遠慮ください。では始めます。


私はこのブログの2014年8月8日付け記事で『浦上天主堂の瓦礫はなぜ撤去されたのか』という文章を公開し、大戦末期の米軍による総攻撃の記録を集め、編集してお伝えした。

天主堂というのはカトリック教という宗教団体を日本語で「天主教」と呼んでいたことから来たもので、「カトリックの教会」というほどの意味がある。

米軍が開発した核兵器が実験に成功したことからヒロシマ・ナガサキで人体実験をおこない、戦争の終結とともにそれら被爆による人的被害を生物学的な情報収集をするためのABCCというものがヒロシマとナガサキに作られた。

国際赤十字が被爆者援護を申し出たが、アメリカ政府は徹底して断っている。実験動物に治療を施しては正しいデータが取れないのは常識なのであって、ABCCは一切の治療行為をおこなっていない。

また広島・長崎の両市に立ち入る者を厳しく制限して情報漏えいを恐れた。ABCCは現在「放射線影響研究所」と名を変えているが、医療行為をおこなわない点では何も変わらない。どうせ看板を付け替えるのであれば「原爆による人的被害のデータ収集所」とするべきだろう。

そしてその施設によって得られたデータは、極秘扱いでアメリカ本国へ持ち去られている。

『阿修羅2』というブログにこう出ていた。

(引用ここから)http://www.asyura2.com/12/genpatu21/msg/907.html

ー 被爆者である橋爪文さんが書いた 『少女・14歳の原爆体験記』(高文研) (中略) より。ー

「私は広島の生き残りのひとりです。〈中略〉 ここで、ひとつ触れたいことは『ABCC』についてです。これは日本でもほとんど知らされていないことですが、戦後広島に進駐してきたアメリカは、すぐ に、死の街広島を一望のもとに見下ろす丘の上に『原爆傷害調査委員会』(通称ABCC)を設置して放射能の影響調査に乗り出しました。そして地を這って生 きている私たち生存者を連行し、私たちの身体からなけなしの血液を採り、傷やケロイドの写真、成長期の子どもたちの乳房や体毛の発育状態、また、被爆者が 死亡するとその臓器の摘出など、さまざまな調査、記録を行ないました。その際私たちは人間としてではなく、単なる調査研究用の物体として扱われました。
治療は全く受けませんでした。
そればかりでなく、アメリカはそれら調査、記録を独占するために、外部からの広島、長崎への入市を禁止し、国際的支援も妨害し、一切の原爆報道を禁止しました。日本政府もそれに協力しました。
こうして私たちは内外から隔離された状態の下で、何の援護も受けず放置され、放射能被害の実験対象として調査、監視、記録をされたのでした。
しかもそれは戦争が終わった後で行なわれた事実なのです。
私たちは焼け跡の草をむしり、雨水を飲んで飢えをしのぎ、傷は自然治癒にまかせるほかありませんでした。

あれから50年、『ABCC』は現在、日米共同の『放射線影響研究所』となっていますが、私たちはいまも追跡調査をされています。

(引用ここまで)

私が生まれ育った地元の長崎では、高齢者になった被爆者たちがいまだにABCCに感謝を持っている人が少なくない。体温を計り、血圧を計り、そして検査のための採血をする。それが実験だからなのだが、それをもって医療行為と勘違いしている。しかし血液検査の結果が送られて来ることは永遠にない。

長崎医科大学はその後、国立長崎大学医学部へと発展した。ここは奇形児研究が盛んで熱帯医学専門研究機関を設置しようとしているが、周囲の住民から「バイオハザードを近所に作られてたまるか」という猛烈な反対運動に遭っている。こうした研究とは、実はABCCとの協力関係にあったがためのものであり、「長大医学部は治療よりも実験を優先している」と陰口を叩かれる所以になっている。

福島で原発事故が起きた際も長崎大学医学部教授が出向いていた。「私はチェルノブイリを診て来た者だ」と言いながら、彼の上司は放射線影響研究所の所長だった。「どの口が言っているのか」とはまだ誰も知らなかった。

つまり、原爆によって発生した生物学上の影響はアメリカが独占して他国には決して漏れないようにしたがために他の核保有国は独自のデータ集めをしなければならなくなったわけだ。中国はウイグル自治区で、ロシアはセミパラチンスクやチェルノブイリで。そしてフランスはフランス領ポリネシアで。

私が被爆者2世であることは以前からこのブログでカミングアウトして来たことだが、どの組織や団体に登録しているわけでもない。上記のように「追跡調査」をされるのがオチだからである。「子供は何人作ったか」「持病はあるか」「かかりつけの病院はどこか」知られてたまるかということばかりだ。

前回の『浦上天主堂の瓦礫はなぜ撤去されたのか』では、キリスト教のアメリカが長崎の教会を粉々に破壊したことによって世界中から非難されるだろうことから瓦礫を撤去させたものだという説明をこころみた。

先日の国連での「核兵器禁止条約」の協議に、広島と長崎の被爆者が参考人として招かれたが、そんな手間ひまをかけずとも瓦礫になった浦上天主堂を残しておきさえすれば、世界中に永遠に核兵器の威力と不合理を伝える何よりの物証になっていたはずだ。

アメリカは原爆を使って戦争犯罪をやったのであり、戦後のヒロシマ・ナガサキで人体実験のデータ取りを続けたという事実を世界が知ることになったのであって、地球上に何千発もの核兵器がここまではびこることはなかったかも知れない。天主堂の瓦礫の中で黒こげになったマリア像がうつろに空を見上げる。あれをなぜ残さなかったのか。アメリカの正体がそこにあったからだ。

私は先の『核兵器禁止条約』と題するブログ記事で、批准しなかった日本政府を支持した。「今はまだ核兵器は禁止すべきではない」と考えるからだ。その理由とは、浦上天主堂の瓦礫を撤去したばかりに、地球上にここまで核兵器が増えてしまって手が付けられない状態になってしまったという、瓦礫撤去への責任問題があるからだ。そしてABCCに手を貸して人体実験のデータ取りを繰り返した広島長崎の両大学の責任も大きい。

長崎市長が「平和都市宣言」をするのなら、せめて瓦礫と化した浦上天主堂のレプリカを制作して世界各国に送れば良い。自動的に世界の非難はアメリカに集中することになる。

もういちど『阿修羅2』から引用したい。

(引用ここから)

以下は
広島の助産婦の証言 ~原爆による奇形~
からの引用です。

私は昭和20年当時、尾長町で産院を開業していました。41歳でした。その頃はまだ家庭分娩が多うございましたが、だんだん少なくなりまして、昭和30年頃には、皆産院に吸収されました。
何も記録は持っていませんが、奇形がたくさん出ました。当時はABCCへ、みな報告しなくてはいけないシステムになっていました。奇形が出ましても、報告するのを嫌う人もございましたので、しなかったこともあります。

一番多かったのは兎唇でございました 。
それに口蓋裂もあって、泣くと喉の奥まで見えるんです。お乳も飲めないような...
それから肢指過剰ですね。多指です。
それから鎖肛(正常な位置に肛門がなく、直腸が盲端になっており、5千人に1人の確率で発病する)。
肛門のないのも多うございました。

兎唇や多指は数が多うございました。分娩で頭の先がでましたら、今度も兎唇じゃないかしら と思ったら、やはりそうで、そのたんびに憂いたことを覚えています。あーどうしてこんなに兎唇が生まれるんかしらと思いました。

すぐ近所でございましたが、二軒に同じように耳のない子が生まれました。そ の1人の赤ちゃんのおばあさんは、産婦人科の看護部長をしておられました。奇形が生まれたということで、すぐに病院に電話をされたれしいですが、先生が来 られたあくる朝、赤ちゃんは逝きましたからね。もう一軒は可愛い女の子でございましたが、おばあちゃんは「火葬場に持って行くまでは、泣きだしはしません から。」と言っておられました。これは薬を使ったんだなと私は思いました。もちろん、家族は何も言いませんし、私も 聞きもしませんでした。元気な子でしたがね。そのおばあちゃんは生涯悩まれたそうです。可愛い子だったですからね。 髪の毛でね、こうやって耳を隠していれば判りはしませんのにね。耳がないんです。ツルッとしておりました、片方だけ 。

それから、内蔵露出で、グルグルと腸が出ておりまして、思い出してもひどいヘルニアだったんですね。大学病院で手術をしてもらい、それはどうにか助かりました。
まだそれから、鎖肛、これはたくさんありました。
それから無脳症ですね。
終戦直後ではないから、2~3年後だと思います。母親は30代でした。どうしても頭の位置がわかりませんのよ。上の方にあるのは確かに臀部だがと思いまし ても、頭部に触れませんのよ。おかしいなと、みよりましたら、無脳症でございました。氷を氷袋の中にいれて下げたらザラザラしますように、頭蓋骨がぜんぜ ん固まっていない子でした。
だから
そんな子が生まれたら、極秘にしてもらいたくてね。こんな事は当時はとても言われませんでした。

(引用ここまで)

実はこうした先天性の奇形児は、中国のウイグル自治区でも続発している。内容はまったく同じだ。ただ、共産党の一党独裁政権なので報道取材に強い規制がかかっていて、自由社会に漏れ出て来る情報はほとんどが「隠れ取材」をしたものばかり。

だから当然のように核兵器の廃絶を叫ぶ気持ちに反論はない。人類の存続を失わせるような悪魔の兵器を許してはいけない。ただ、一党独裁の中国が持ち、金正恩のような狂人が開発しようとしている現代においては禁止さえすればそれで良いのかと立ち止まって考える必要がある。南スーダンで国連職員の女性が政府軍兵士から集団レイプされたが、そうした狂人たちが核兵器を手にするかもしれない時代に入っている。

長崎の原爆の直後に手を打つべきだった。手遅れになる前に。あの時だったら間に合っていたかも知れない。そう浦上天主堂が瓦礫になっていた時にだ。

ニューメキシコ州のトリニティ実験は1945年だった。これが人類初の核爆発で20キロトン。2番目がヒロシマで15キロトン。そして3番目がナガサキで21キロトン。ここまでで核開発がストップしていればその後のメガトン級の兵器は作られていなかった。地球上で2000回もの核実験も起こらなかった。この時だったら今の国際会議も意味があっただろう。禁止にすべきなのはこの時だったのだ。

フランスが地球の裏側のポリネシアで、中国が占領したウイグルで実験をするなどというあつかましいこともなかっただろう。







終戦後、長崎市長だった田川務は昭和31年に米国の招きで渡米した。当時は第五福竜丸の水爆実験による「死の灰」汚染事件で原水爆禁止運動や反米感情などが盛り上がりを見せていた頃でありアメリカ政府は相当に焦っていた。

カトリック長崎司教の山口愛次郎も天主堂の再建援助を求めて渡米していた。アメリカ側は「瓦礫の撤去」を交換条件にして資金援助やミネソタ州セントポール市と長崎市との姉妹友好都市締結を出して来た。

世界の核兵器に縛りを付けるのはこのチャンスだったのであって、今ではない。遅きに失した核兵器規制のブレーキペダルを踏むことは、逆にスリップを引き起こすような気がしてならない。



スポンサーサイト
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR