般若心經

人という存在は、5つの集まりから成るもので、その5つの集まり、 色、受、想、行、識は、すべて空である、ということ。

ちょっと難しい話になるけれど、これは般若心経に出てくる最も重要な言葉、「五蘊皆空(ごうんかいくう)」という部分。

お経の冒頭はこのように始まる。「観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。(かんじざいぼさつ。ぎょうじんはんにゃはらみったじ。しょうけんごうんかいくう。どいっさいくやく)」

これを簡単な現代語に訳すとこうなる。「観音様が深く般若の智慧の完成を行じていたとき、人間の本質が五つの集まりであることを明らかになさり、それらが実体のない空虚なものだと明らかにすれば、一切の苦しみ(苦厄)から抜け出す(度す)ことができると説かれた」

「五蘊」の要素である「色・受・想・行・識」の解釈は様々なとらえ方があって断定的なことは控えるべきだが、常に移り行くものであって定まらず実体がないものと受け止めれば大きく間違うことはないように思われる。

以下の解釈はあくまでも暫定的なものであって、すべてをとらえているものではない。

色=肉体。目鼻立ちや髪形。また外部の物体。

受=眼・耳・鼻・舌・身・意の六根を用いて知覚すること。

想=受によって知覚したことで何かを思うこと。

行=想によって思われたことで意思を生み出すこと。

識=行によって生み出された意思で物事を認識すること。

「色」とは自分という肉体と外界のあらゆる物質のこと。「受想行識」とは人の精神的な部分の、移ろいゆく心の働き。

これらの五蘊がすべて実体のないものだと照見すれば一切の苦厄を度し給えり、というわけだ。

これは簡単そうで深い。深そうで明快だ。

一人の異性を愛したり憎んだり、付きまとって殺そうとまでする者もいる。警察官にも政治家にも例外はない。

人間関係で悩んだり、健康問題で悲しんだり、将来的な不安があったり、現状に満足できなかったり、そうしたことは動物にはない。人間だけが持つ感情で、だからこそ人間だけが宗教を知り教えを説く。

「猫に未来はない」という本を読んだことがあるが、未来を考える脳機能が備わっていないということらしい。ハエは本能以外の認知機能が5秒しか続かないのだそうだ。だから払っても払っても飛んで来る。それに対して人間の思考能力はずば抜けていて、その分余計なことも考えてしまう。性格の差で「くよくよ」する人もいれば「あっさり」している人もいるが、総じて悩みの一つや二つは持っている。

上記の五蘊の中に「想」がある。何かを思うことだが、そこから出て来るものに「好き嫌い」がある。子供の頃は嫌いだったピーマンが、ある年齢になると美味さがわかったりする。ビールの苦さもそうだし、あれほど好きだった男を急に毛嫌いする女性は珍しくない。体も心も好みも考えも、すべてが移ろいゆくものだ。変わって当然なのであって、「変えてはならぬ!」と主張すると途端に身動きがとれなくなって硬直してしまう。どこかの大使館前の銅像のように。

喜怒哀楽、すべてが流れゆくものであって幸も不幸も永遠に続くことはない。

こんな話がある。僧侶の師弟が二人で旅をしていた。河を渡ろうとして身支度をしていると一人の旅の女性が困り果てている。「私の肩にお乗りなさい」そう言って僧師が女性を肩車し河を渡った。向こう岸に着いて女性を降ろした僧侶が歩き出すと、弟子が怪訝な顔で付いて来る。しばらく歩いたあとで弟子が言った。「女人に触れることは禁制のはずでしたが」すると僧師は大きな声で笑い出した。「お前はまだあの女人を肩に乗せていたのかい。わしは川岸で降ろして来たよ」。

切る際はきっぱり斬り捨てれば良いのであって、引きずるから良くない結果に結び付く。

起きて来る物事に適切に対応して、さっさと次へ移る。そのことで明日が開けて行く。かばんの中身は入れたり出したりすれば良いのに、いつまでも入れたままにするから新しい物が入らなくなる。入れるのが先ではない、出す方が先だ。スクラップ・アンド・ビルド。ギブ・アンド・テイク。呼吸。いつだって出す方が先に立つ。

水泳教室で最初に教えるのは息の吐き方だそうだ。溺れる人は息を吸う事だけに必死になる。どこかの国の労働組合が賃上げ要求のストライキをしているとか。海で溺れている状態なんだよね。

一度決まった役所の計画は取りやめになることがほとんど無理らしい。泳ぎ続けなければ呼吸ができない魚に似ている。増税だけに必死になっている省庁もある。「照見五蘊皆空」を誰か教えてやってほしいものだ。

般若心經・・・


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