中川昭一と韓国 【旧題】李明博という汚名

「韓国のネズミ男」と呼ばれた人物がいる。他でもない李明博前大統領だ。

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この男、大阪府中河内郡加美村(現:大阪市平野区加美南3丁目)生まれで、月山明博(つきやまあきひろ)という日本名(通名)を有していたが、終戦直後の1945年10月に両親家族とともに密航船で父親の故郷である慶尚北道の浦項(ポハン)へ引き揚げている。

明博が定時制高校を卒業すると一家はソウルの龍山区にある梨泰院(イテウォン)に移住した。この土地は旧日本軍の基地があった場所の近くで、戦後は連合軍(米軍)基地に代り米軍相手のみやげ物売りや飲食店、売春婦などといった混血児の町としてにぎわった一角の近くである。

その後明博は高麗大学に入学し商学部経営学科に在籍するかたわらで同大学総学生会長代行に選出された。

しかし当時の韓国は学生による民主化運動のピークに達していて、朴正煕政権下での日韓基本条約の締結に向けての日韓会談を阻止すべく反対闘争を激化させ両国政府の会談を中止させた。これにより国家内乱扇動罪で懲役3年・執行猶予5年の有罪判決を受けている。

こうした犯歴を抱いたまま大学を卒業した明博は、当然のように就職に苦労することとなり、当時まだ零細企業だった(日韓基本条約締結直後だった)現代建設に入社し重機事業担当として発展途上だったタイ・ベトナムや中東方面での造船所や港湾建設などに関わってゆく。

29歳で取締役、36歳で社長、47歳で会長に就任した明博は現代建設を韓国有数の企業に成長させたのち、現代グループを離れて政界に進出する。つまりこの人物の急速な成長は「日韓基本条約」による日本からの資金援助と円借款および技術支援があったからであり、それなくしては明博の立身出世はあり得なかったことになる。

1996年の第15代総選挙で新韓国党から出馬した明博は対立候補の廬武鉉を破って当選。しかし選挙参謀による選挙資金の違法行為があったとして罰金刑に処される予定だった1998年に、議員を辞職してアメリカへ逃亡。実質的な有罪を免れている。

ジョージワシントン大学の客員研究員として1年間を過ごしたのちに帰国し、恩赦によって政界復帰が可能になったことから2002年のソウル市長選挙に立候補して当選する。しかしまたしても選挙違反行為が明らかとなって罰金刑が科せられた。

2007年5月、大統領選挙におけるハンナラ党の候補者選びの予備選挙で朴槿恵を抑えて党公認を勝ち取る。しかしまたしても明博にソウル市長時代の「土地投機がらみの売買疑惑容疑」がかけられて告訴される。ことごとく選挙活動において違法行為がつきまとった人物である。

2007年12月、明博は対立候補(大統合民主新党の鄭東泳=チョンドンヨン)を圧倒多数で破り第17代韓国大統領に当選する。

経済界出身の明博は、韓国経済の回復と発展を主眼に置き、日本の福田康夫首相やアメリカのブッシュ大統領などとも経済外交を展開させた。つまりこの時点で北朝鮮との援助外交は無視したかたちになったわけであり、北朝鮮の軍事強化を促進したような結果になっている。

「彼は大統領就任式で、経済の回復を始めとして韓米関係の強化や北朝鮮との交渉を誓った。彼は特に「グローバル外交」を目指すと共に隣国である日本、中国、ロシアとの更なる協調を追求すると断言した。さらには、韓米関係を強化した上で北朝鮮に関してより厳しい政策を実行する、いわゆるMBドクトリンの促進を誓った。大統領の名前である明博 (Mb) のイニシャルと経済学 (economics) を結合したMbノミクスは、李大統領のマクロ経済政策を示している。」(Wikipedia より引用)

こうした経済優先の政治姿勢は、どこか現在のトランプ・アメリカ大統領と重なって見えて来る。

米韓自由貿易協定すなわち二国間FTAの主題は狂牛病が論議されていたアメリカ産牛肉の輸入再開だったのだが、それに反対する市民集会が「ローソク集会」という形で登場した。しかしこうした「政府批判」の扇動は、北朝鮮に好戦的だった政府与党に向けられたものであった以上、韓国左翼の工作によるものだった点は歴史が証明している。

2008年9月のリーマンショックと、それに起因する韓国通貨危機によって明博の経済外交はとん挫するかに見えた。駐日韓国大使だった権哲賢(クォンチョルヒョン)は対韓強硬派の中川昭一財務大臣に日本国内の親韓派からの圧力をかけて日韓スワップ協定を成功させ外貨を融通した。

中川昭一と言えば「東シナ海ガス田問題」に強い姿勢で臨んだ政治家として歴史に残っているし、2006年の自民党総裁選挙では、当時官房長官だった安倍を支持して第一次安倍内閣の誕生に寄与しつつ自民党政調会長を担っている。その後、安倍総理が健康上の理由で辞意を表明したことから、中川は麻生太郎を首相にするべく活動したが自民党総裁選において福田康夫が選ばれた。韓国のネズミ男がうごめいていた時代とはそういった相関関係にある。

中川はその後「あなたとは違うんです」という有名な捨てゼリフを残して去った福田に代り、満を持して首相になった麻生政権下で財務・金融担当大臣に就任したが、2009年2月のG7サミットでローマに出向いた際に呂律が回らず酩酊しているかのような記者会見をおこなってマスコミの批判を集め3日後に辞任、同年10月4日に世田谷区の自宅で倒れ搬送先の病院で死亡が確認された。遺族は急性心筋梗塞が死因だったと説明したが、解剖後の発表はない。(この「酩酊事件」では「モルヒネでも盛られたのではないか」とする噂が絶えなかった)



一方の韓国は、日本の親韓派の支援を受けて通貨スワップが成立したことから経済成長率がプラスに転じ、明博政権の支持率も4~5割台で推移し安定政権となった。

2012年に明博の実兄があっせん収賄罪で逮捕起訴され、国民からの批判を浴びることになった明博は、韓国国民のナショナリズムをくすぐる目的で島根県の竹島に渡り、日本の天皇陛下を侮辱して見せた。

日本における韓流ブームの終焉と嫌韓感情はこのネズミ男が演出したものであり、日本各地で「在日特権を許さない会」が勃興する原因を産みだしてしまった。

すなわち、現在の「ヘイトスピーチ」なるものの原因はネズミ男が作ったものであって、在日左翼グループが抗議をするとすれば日本人ではなく、李明博に対するものでなければならないのである。

そして対韓強硬派だった中川昭一氏が反対した「日韓通貨スワップ協定」が親韓派によって進められた結果が現在の有り様である。

ソウルのローソク集会がどんな起源だったのかを知ろう。若かりし李明博が抗議した「日韓基本条約」によってソウル市長時代のみずからがどれだけ幸運に恵まれたかを自覚しているだろうか。



そして中川昭一氏と肩を組み合った安倍や麻生が、いまどんな仕事をしているかを、日本人は思い起こさなければならない。







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