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朴と舛添の偶然の一致

2018年に予定されている平昌冬季オリンピックについて韓国がゆれている。

当初国際オリンピック委員会(IOC)が、分散開催を容認する仮決定を出していたが、韓国政府(と言うよりもむしろ与党)が「分離開催はしない」とプライドにかけたような態度を示したことから一転、IOCも分散開催の見送りを明らかにした。

ところが韓国のネット上では現実的な声が上がっている。
「カネがない以上プライドを捨てるべきだ」「頭を下げて日本に援助を求めよう」「W杯の前例があるじゃないか」

そもそも夏の避暑地だったソチで冬季オリンピックをやろうとしたロシアは、当時まだ天然ガスによる潤沢だった資金を背景にして、巨額を投じて人工雪を積もらせた。
オリンピックの歴史上最高額を記録したのも、オリンピックが世界に国力を示す絶好の機会だととらえたからだった。

そのソチでの閉会式にカンナム・スタイルだか何だか知れないものを持ち込んで、次の開催地ですよと大見栄を張った韓国は、すぐにキム・ジンソン大会組織委員長の辞任という敵前逃亡を許したことから、誰もその後の火中の栗をひらう人物が現れなくなってしまった。
仁川国際空港から平昌までを高速鉄道(KTX)で結ぶという誘致公約も早々に引っ込めてしまった。
要するに、大会終了後の運行の利用率を予測した場合、建設費を回収することは不可能だろうということが明らかになったからだ。
会場周辺に宿泊施設(選手村)を建設することも、同じ理由で「現実的ではない」といった声が多数を占めた。
そして決定的だったことは、スケルトンやボブスレーなどのソリ競技をする施設の造り方を知る者が韓国には誰もいないということがわかった。
ここから、維持費に苦しんでいる長野のことが急浮上することとなる。
スケートやスキーはシーズン・オフでも何かに利用することはできる。
しかしソリ競技場は何にも使えない。

長野を利用するという案が出たのには下敷きになったものがあって、舛添東京都知事がペコペコ都市外交をやって「お手伝いしましょう」とやらかしたことだった。
「手伝うと言うのであれば、手伝わせてやらなくもない」てな態度に出る韓国国民だったが、政府は意地とプライドをかけて「分散開催はしない」と言い放った。

「だけどさ、ソリ競技を長野に譲れば、2020年の夏季オリンピックでサッカー競技をもらえるじゃん」
だから愚か者を相手にしてはいけないのだ。譲る譲らないの話をしているのではなく、できるかできないかの話をしているのだ。
しかも日本は、オリンピックとは無関係に新幹線を着々と増やしており、そのうちリニアまでが完成するだろう。東京と名古屋が共同開催してもリニアがあれば何も問題はなくなって来る。
そうすれば東京オリンピックは成田と羽田と中部国際空港という3か所が玄関口になれるわけだ。どうだ韓国。

舛添は「予算を節約するために、当初の案から遠隔地まで広げる計画を進めなければならない」と言い出したが、それを聞くと東京都は予算もないのに誘致に立候補したのかと疑われることになる。
そんなことはない。
2014年11月に舛添都知事は、2020年の東京オリンピック会場となる「若洲オリンピックマリーナ」と「夢の島ユース・プラザ・アリーナ」の建設中止を発表して約2500億円の費用を削減し東京以外の既存施設を利用すると決定した。
これを青山繁晴流に言うならば「これはまるで東京のお金が足りないというメッセージを送っているかのような受け取り方をされる」というもの。

ところが東京の財政は、年間予算が13兆3317億円。都内の名目GDPは92.4兆円。オリンピック開催準備基金は4096億円に達している。
これはインドネシアの国家予算に匹敵していて、GDPに至っては東京都だけで韓国全土とほぼ同額になっている数字。
ここで「東京都にはお金がない」という間違ったメッセージを送れば、発案者である石原慎太郎が烈火のごとく怒るはずなのだ。

舛添とは経済産業省でもなければ国土交通省でもなかった。務めたのは医薬品の許認可権を持つ厚生労働省。ここで医薬品業界の利権とつながってしまった。S学会を通じて。
彼が厚生労働大臣だった任期いっぱいを使って何がおこなわれたかと言うと、子宮頸がんワクチンのサーバリックスの優先承認だったことは以前に申し上げた。
また、メキシコ発の新型インフルエンザのために、全国の医療機関にタミフルを備蓄するよう指示を出したのも彼だった。
製薬企業にとったら莫大な販売利益が発生したわけだ。
だからゼネコンなどとのつながりは逆にない。
建設業界に恨まれてでも、S学会を通して半島に近づこうとしている。
彼を東京都知事に選んだのは一般の東京都民ではなかった。
S学会が手を回して、全国の信者を一時的に東京都に転入させただけ。沖縄県知事選挙と同じ方法がとられたわけだった。

舛添都知事は昨年12月の会見でこう述べている。
(2020年の東京オリンピックに関して)一部競技を韓国や中国で開催する可能性を問われた返事として、「東京五輪と言ったら基本はやはり東京が中心にやるべきであって(中略)私はものには限度があると思っています」
「そういうこと(日韓共同開催)をやれば、いろいろな関係改善のためには有効かもしれないけれど」

つまり彼が言っていることを順序よくまとめると、こうなる「物には限度があるけれど、関係改善のためにはやむを得ないんじゃない?」ということ。
一旦共同開催を否定して見せたのは、2月に控えたリコール運動の高まりへの危機感。
しかしその成功率は決して高くないと言われている。
つまり彼が逃げ切る可能性が高いと予想した場合は、その先に共同開催という看板を掲げる用意だけはしておこうという企み。

そしてもう一つは、朴槿恵大統領の任期の問題。
彼女が当選したのは2012年12月19日の大統領選挙で、第18代大統領に就任したのが翌年2013年の2月25日だった。
韓国の大統領は5年の任期で再選は認められていない。
自動的に次の第19代大統領にバトンタッチするのは(任期途中で事故や暗殺などがなければ)2018年の2月25日ということになる。
この日はどんな日だろうか。
そう、平昌で予定されている冬季オリンピックの閉会式当日に当たる。

(以下は Wikipedia からの引用)

開会式、閉会式の会場は、平昌郡に計画されてきたが、2014年9月24日、韓国政府は地域の人口が少なくオリンピック後の利活用目処がたたないとして、会場を平昌から江陵へ変更する意向を表明した。
その後、江陵案は地域から起こった反対運動に折れる形で短期間のうちに撤回されたものの、2014年10月末現在、着工の目処はたたない状況となっている。
そもそも開会式、閉会式はオリンピック憲章により開催都市以外での実施は認められていない。

開会式はオリンピック憲章に則り国家元首である朴槿恵大統領が開会宣言を行うが、2017年に行われる韓国大統領選挙の当選者である次期大統領が大会最終日に就任するため、就任式のあと閉会式に出席することになる。

(引用ここまで)

一方で舛添都知事はどうかと言うと、当選は2014年の2月11日。翌日の12日には都庁で就任会見をやっている。任期は1期4年。
つまりリコールが成立しなかったとしても2018年の2月にいったん任期が終了することになる。
平昌オリンピックの開会式が2018年2月9日予定で、閉会式が同25日になっている。
つまり舛添の任期が終わるのは開催中だということになる。
すでに朴槿恵は過去の人になってしまっている。
東京オリンピックをいじくろうと企んでいる舛添だが、朴と一緒に「バイバイ」となる公算が高いのではないだろうか。(2018年まで大韓民国という国家が生き残っていたらの仮定の話ではあるが)

舛添は当然2期目を目指して出馬するだろうから、2017年の11月中旬以後に、S学会が集まる必要があるような選挙があれば良いことになる。舛添を都庁から確実に追い出そうとするならば、S学会の動きを封じる必要がある。
将を射んとほっすれば馬を射よ、というヤツだ。

ところがそうは問屋が卸さない。
昨年暮れの衆議院選挙で自民党は「勝った、勝った」と言っているが、実際には自民の議席は減っている。
なのにどうして「勝った」と言えるのかと言うと、公明党が議席を増やしているから。
連立を組む与党は数の上では「勝った」ことになっている。
しかし与党内での公明党の発言力は間違いなく高まっている。
それがS学会の底力だ。
だから開票速報で安倍さんはイラついて、アナウンサーの質問にイヤホンを引き抜いたりしていた。
さまざまな政策に公明党が口をはさんで来ることが読めていたからだ。
つまり、前回の解散総選挙による本当の勝利者とは、公明党だったと言うことができる。
そして、この結果を都庁でじっと見ていた人物がいたということだ。
放っておいたら何をやらかすかわからない妖怪のような男です。

それにしても退任時期がほとんど一緒なんて、偶然の一致って恐ろしいね。





有りそうで、ない話

先週、定期的に処方箋を出してもらっている病院へ出かけた。

待合ロビーのイスに座っていると、背後から肩を叩かれた。

「ご無沙汰してます」と相手が言った。

(はて誰だっけ?)と思いつつも私は「ええ、お久しぶりですね」と当たり障りのないような返事をした。

(どこで会ったかな。同窓生? それともどこかの飲み屋の常連? あるいは昔の取引先?) まったく思い出さない。

「お元気でしたか」と聞かれた私は(元気じゃないから病院に来てるんじゃないか、変なヤツだ)と思いつつ、笑顔で「ええ、まぁ」と誤魔化した。

「奥さんは、その後いかがですか?」と聞かれたので、最近の皮膚湿疹のことを言っているのか、それとも数年前の子宮筋腫のことだろうか、もっと前の胆管炎のことだろうかと記憶をフル回転させた。

「お蔭さまで」

便利な言葉を思いついたものだ。

タイミングよろしく清算窓口で私の名前が呼ばれた。

処方箋と健康保険証と診療カードを受け取って振り向くと、すでに立ち去ったものとばかり思っていたその男性がまだ座っていた。

「あのう」彼は言い難そうな顔で声を掛けて来た。

「すみませんが、どちらさんでしたっけ?」

「え?」

そう言われた私の方が面食らった。

「実は私も同じことを考えていたんです」と私。



我々はどちらからともなく笑い合った。

「思い違いだったようですね」と私は言った。


次にまたこの病院で会うようなことがあれば、その時こそ「お元気でしたか?」と言うことができるだろう。



サザンオールスターズの失敗

はっきり言うが、サザン・オールスターズがデビューした当時の「勝手にシンドバット」という歌に対して姉から質問があった。
「この歌、結局なにが言いたいの?」
私はひとこと
「わからん」

メチャクチャな歌詞の文句は井上陽水も同じで、「夜明けが明けたとき」だとか「部屋のドアは金属のメタルで」とか、とにかく日本語になっていなかった。
少年時代という曲のメロディーは好きなんだが「夏が過ぎ、風あずみ」ってなどういう意味なんだかいまだにわからない。
まだ、陽水がカヴァーした「ウナセラディ東京」の歌詞の方が優れている。
「街はいつでも、後ろ姿の幸せばかり、ウナセラディ東京、ああ」深みがある日本語ではないか。
今さらサザンの歌に言語力を要求しても始まらないのかも知れない。彼らはノリだけで売って来たバンドだからだ。
「ピーヒャラ、ピーヒャラ」といったアニメの歌と何も違わない。
何の主張もないのだ。

つまり彼らには政治的な主張をするほどの技量は何もないと言える。
そこで、平和だとかの口出しをすることが「おこがましい」態度だと言える。
無知な者は無知なままでいた方が良い。

言語力を持たないのであれば政治や平和に口を出すべきではないし、いわんや紫綬褒章を尻のポケットから出し、オークションの真似をするなどといった「おちょくった」態度は反省したところで取り返しはつかない。

これを「若気の至りだ」として許す雰囲気があるとすれば、これから先の芸能界は何でもありだということになって来る。
せっかく青山学院が箱根駅伝を制したが、彼らの先輩がこうした姿ではぶちこわしになるだろう。

フランスの週刊誌がモハメッドをおちょくるような記事を書いたことから、「表現の自由」などといった騒ぎになっている。
しかし表現には自ずと自身の文化レベルが伴っていて、低いレベルの者から批判されると不愉快になることは事実だ。
それはちょうど韓国人から日本文化を批判されたようなものであって、旭日旗とモハメッドの肖像が同じポジションに置かれているような気がする。
踏みつけても燃やしても「表現の自由」だと言い出しかねない。
フランスの風刺画が適切なものであったとは少なくとも私はそう思わない。物には「言って良いことと悪いこと」があるのだから。
フランスでおこなわれたアングレームでのマンガ祭において、韓国の従軍慰安婦を主張したいチームが優先されたことがあった。韓国の女性家族部という政府の代表が乗り込んで来た。
フランスには表現の自由があるとしてこれが許可されたが、政治的なプロパガンダが「表現の自由」におきかえられるきわめて未熟な社会がフランスだ。
フランスは「表現の自由は保証されている」として擁護したからこそ、今回の風刺画騒動に発展したように私は理解する。

何でもかんでも相手をからかえばそれは合法になるような、そうした雰囲気があるのではないか。

モハメッドを風刺画としてからかう以上は、権利の裏側に責任が伴うことを覚悟しなければならない。
表現の自由の裏側には必ず責任が付いて回るのだ。
たった一枚のイラストを描くには、分厚い理論武装が準備される必要がある。
だとすれば、従軍慰安婦の少女像の裏側にはどんな責任が付きまとっているのだろう。

表現を自制しろという意味ではなく、表現者は覚悟が必要だということだ。

そのことを、フランス社会や韓国社会はまだ判っていない。ましてや朝日や毎日新聞はどうだろう。

サザンをいい加減に扱うと、日本は底なし沼に入るような気がする。

私は右でも左でもないが、危機感だけは敏感に受け取っている。

北朝鮮の指導者をからかい半分で映画化したアメリカは、振り上げた拳のやり場に苦労した。
サイバー攻撃のようなことにすり替えてどうにか乗り切ったようだが、こうした稚拙な表現が、世界を思わぬ方向へ推し進める危険性は増しているような気がする。


食べ物商売の 「いろは の い」

あまり関心が強いわけではないのだが、世間並みの話題だからすこし触れておきたい。

Mcの業績が極端に落ち込んで回復のきざしが無いという。
これは上海でのチキンナゲットの工場で、あってはならない不正が発覚したことから顕著になった業績悪化なのだが、実はその後に起こる異物混入の事故と、この業績悪化は直接結びついているとは思えない。

たとえば2012年の10月に、日本Mcでは東京の店舗を中心にしてレジカウンター上のA3サイズのメニューを廃止した。
新宿の大型店では、カウンターの頭上にあるメニューボードで季節限定のセットメニューなどを紹介しているがハンバーガーの単品価格などは新規客にはわからなくなっている。
カウンター上のメニューを廃止したのは全国約3300店のうち3100店で実施された。

この経営計画は客単価を上げたい経営者の方針が強いのだが、原田会長の話によると「1秒早く商品を提供すれば、全店で8億円の増収になる」というのが持論だったそうだ。
つまりレジの行列に並んでいる来店客が、カウンターに着いて初めてメニューに悩むのではなく、行列の最中にメニューボードを見てあらかじめ決めておけるように、との企みがあった。
自動的に客は単価が高いセットメニューを注文することになって、全社的な業績が急回復するだろうという魂胆だ。

しかしそれって「客を何だと思っているのか」という批判から逃れることはできない。
異物混入などとは全く別の話になって来る。

アルバイトの店員教育も、「愛される店舗作り」よりも「1秒短縮」を重視する経営方針にリードされている。
女性芸人がものまねでMcの店員の口調を真似て笑いを取っているが、あの決められたセリフを早口で言うのも、あれは「サービス」でも「おもてなし」でもなく、客をブロイラーか何かのように考えた「オートメーション」の結果だ。
1秒が8億円になるという計算上の利益だけにのりうつられているのがMcの経営方針だった。

また、挙句には持ち帰り客の手提げ袋を廃止した。
これを会社側は「環境への配慮」としているらしいが、「悪化する利益率の対策」であろうことは明々白々なのだ。
つまり経営者の軸足は、客の利便性の方向には向いていないということがわかる。

このメニュー問題と手提げ袋の問題が決定打になったものと思われる。
異物混入があろうからMcに行かないとか、そんな単純なことではないらしい。
経営姿勢の間違いから発生した基本的な経営悪化は、簡単な対策で解決するはずはない。
ましてや外人女性のCEOが謝罪を否定するような会見をおこなったので、火に油を注いだようなものだ。
まるで「ジャップは黙って金を置いて行け」と言わんばかりの態度だ。人気が回復するはずがない。

食べ物商売が、何かしらアメリカ流の資本主義で利益追求の場と成り下がっている。
8億円の増収のために1秒の短縮をアルバイトに求める。そこに顧客への配慮はどこにもない。
そういった自分都合の経営哲学は、微妙に客に伝わるものらしい。

Mcの業績は確実に悪化している。
日本人に愛されようと思うならば、日本人の感性に適合する経営をしなければならないという、貴重なヒントのような気がする。

岡山の「丸亀製麺」がうどん店を、本場の高松市の栗林公園店として開店させた。
しかしよそ者から地名を利用された香川の人々の支持は得られなかった。約3年で閉店している。
「愛される店舗造り」が基本になって経営理念は作られるべきものだ。

私は外食をした時は支払いの際に「ごちそうさま」と必ず言うことにしている。
かつて、客を怒鳴りちらすラーメン屋が評判になったことがあった。香水の匂いがする女性客は「出て行け」と言われた。
もちろん料理屋に香水を付けて行く非常識が否定されることは当然ではある。
しかしこの店が私は好きではなかった。



イナゴは果たして食べ物か

笑点はほぼ毎回観ている。
よほどの事情がない限り、自宅で観ることに決めている。
他人のお宅でだらしなく笑い転げる姿は見せたくない。

前回の放送で木久ちゃんがおかしいことを言っていた。
怒った顔をする木久ちゃんに歌丸さんが問いかける。「どうしたの」
木久ちゃんはこう言った。
「イナゴの佃煮を買って行ったお客さんが返品に来たの。虫が入っているって。」

私があまりにも大爆笑をしたものだから、キッチンで料理していた女房どのが飛んで来た。
「どうしたの」
ここで説明したのでは空気が台無しになる。
「べ、別に・・・」

これはMcに関する社会の騒動を皮肉った高度なジョークであって、しかも清潔感に敏感になりすぎる日本人への皮肉でもあるわけだ。

小学校の頃、出された給食にイモムシが入っていたことがあった。
キャベツを使ったスープか何かだったと思う。
女子生徒の何人かは嘔吐する生徒も出ていたが、その時の女性教師は平然と
「野菜を食べたいのは人間だけじゃないのよ。それだけ安全な野菜を給食室のオバサンたちは選んでくれているんじゃないの。気が進まない人は残しても良いよ。」
と言い放った。当時の日教組にも骨のある女性教師がいたらしい。

当然ながら児童たちは沈静化して、それ以上の問題にはならなかった。

異物混入と言っても、入っても仕方がないものと許されざる物とがある。
そのあたりの線引きはしなければならない。

かつて私が子供の頃に、3秒ルールというものがあって、地面に落ちた物でも3秒以内であれば拾って口に入れても大丈夫だというもの。
昔はまだ、歩道などが舗装されておらず、砂利道が多かった。
だからいかに3秒以内であれ、砂利が付いたおにぎりとかは子供でも食べられないことがわかった。
つまり自分で判断すれば良いわけだ。

この判断能力が徐々に日本人から失われているように思えてならない。

私の女房どのは、イナゴも蜂ノ子も昆虫は一切口にしない。
「どうして?」と聞くと
「そんな物食べなくても立派に成長して来たから」とのたまう。
間違いではない。

しかし、珍獣ハンターのお嬢さんがいろんな国でいろんな食材を食べているのを見ると、日本人は本当にこの先大丈夫なんだろうかと、余計な心配をしてしまう。

Mcが正しいのか。
それとも木久ちゃんが正しいのか。
今夜は眠れないかも知れない。

とか何とか言っては、酒ビンに手が伸びる私ではあった。




五輪の行方とリコール問題

韓国と日本で、オリンピックに関する様々な駆け引きが行われている。
韓国では日本との共同開催はありえないとする政府やメディアの報道が先に走ったが、次第に2020年の夏季開催のサッカー種目を韓国に渡せば、平昌で予定されているソリ競技を長野に譲っても良い、などといった勝手な評価が出て来ている。
 
東京の舛添も、日本と韓国は海で隔てられていて言語も違う、共同開催は現実的ではないとしているが、都市外交とやらで朴槿恵に会った際の「協力関係」の取り決めを反故にするまでの覚悟があるのかどうかは定かではない。
つまり綱引きよろしく、引いたり緩めたりしながら、思うような決着をつけたい気なのだろう。
「共同開催は現実的ではない」とひとこと発言したからと言って、何から何まで信用することはできない人物だ。

特に五輪におけるサッカー競技というものはワールドカップに匹敵するほどの集客力を有するものであって、既存のスタジアムで何百億円という興行ができるのであれば、韓国は完全な「勝ち組」になれる。
入場料収入だけではなく、放送権料も入るのだから。
スタジアムに掲げる広告宣伝費もバカになるまい。
そうしたソロバン勘定を弾くのが五輪開催のだいご味だ。

ウクライナ問題で世界から白い目で見られたソチ冬季ではあったが、過去最高額の投資をロシアがやって成功させたのはプーチンの能力だったのかも知れない。
しかしその投資を回収する前に世界的な原油安がやって来て、ロシア経済は崖っぷちに立たされている。
つまり、五輪の開催国は直後に経済危機を招きやすいというセオリーを忘れてはいけない。
ユーゴのサラエボでは、五輪の直後に民族紛争が勃発した。
ソウル五輪の直後に通貨危機がやって来た。
ギリシャのアテネでは経済危機に見舞われた。
北京では少数民族の問題と環境破壊が一気に加速している。

F-1グランプリもろくに成功できなかった韓国が高速鉄道を条件に挙げた冬季五輪など成功できるはずがない。
都市外交を進めた舛添東京都知事は、2月のリコールが怖くて一旦は「共同開催はあり得ない」と発言したが、どこまで信用できるかを有権者は考えるべきだ。

「この男、凶暴につき」

まだある。
仁川のアジア大会で窃盗容疑をかけられた水泳選手が正式に仁川警察に抗議を始めた。
JOCは本人の窃盗容疑を韓国警察に認める格好をとっていることから、捜査の成り行き次第ではJOCの立ち位置も危ういものになりかねない。
そうなれば、当然2020年の東京夏季五輪にも多大な影響が出ることは必至であって、舛添や森だけの話ではなくなって来ることになる。

とりあえず摘むべき芽は摘んでおく方が良さそうだ。
やはりリコール運動は加速させなければならない。




シルクロードとうどんの話

韓国は日本から「お兄さんの国」と呼ばれたいらしいのだが、実は仏教を始めとする様々な文化は唐や隋や宋から学んだものだった。
中国という表現は中華人民共和国という数十年の歴史しかない国の名称だからあえて使わない。
それらは主に僧侶が仏教を学びに渡来して、様々な知識を持ち帰った。
その点ではまさに「お兄さん」と呼んでさしつかえないだろう。

朝鮮が陶工や仏像などを日本(倭国)が強奪したと主張しているが、身分制度が500年も続いた李氏朝鮮の時代に、労働は奴隷がするものと定義されていて、優れた白磁や青磁などを作る技術を持っていた職人は冷遇されていた。日本は彼らを保護したという見方もできるわけだ。
さらに李氏朝鮮時代が始まると儒教が国教になり仏教を徹底的に弾圧する。寺社は打ち壊され、仏像の多くが破壊され、僧侶らは奴婢の身分に落とされた。
対馬に古い朝鮮由来の仏像が多いのは事実だが、それは強奪などではなく、保護だったと見るのが正しいようである。
李朝から逃れた仏教の僧侶が、必死の思いで仏像を隠し持って来たこともあるだろうし、あるいは破壊に携わった盗賊たちが日本へ叩き売ったこともあっただろう。
現に韓国から持ち出し禁止を受けている対馬の仏像の背中は焼け焦げた跡があるという。

しかし日本の文化の基礎が唐や隋や宋から得られたことは明白な事実であって、これを否定する声はどこからも出ていない。
日本を「歴史修正主義」だと罵るのであれば、この部分をはっきりとさせておく必要がある。

さて、長崎の隠れたグルメに「トルコ・ライス」というものがある。
これはチャーハンとカツカレーとスパゲティがワンプレートに乗って供される料理だ。
これがどうして「トルコ」なのかというと、ローマ帝国の文化と中東のアラブ文化とインド文化と清国の文化がひとつになったシルクロードを意味する中継点であるトルコがシンボリックに表現されたからだという。
長崎には卓袱(しっぽく)料理というものがあって、和食・中華料理・西洋料理が混在している非常にワールドワイドな料理だ。

つまり遣唐使や遣隋使らが命がけで持ち帰った文化は唐や隋だけではなかったと言うことができる。
一説によれば、弘法大師空海が持ち帰った経典の中には景教のものも含まれていて、それが根っこになって真言密教が成り立っているとも言われている。
イスラム教のことを支那では回教などと呼んでいるが、この景教とは実は古代のユダヤ教の一派だったネストリウス派のことだ。
秦の始皇帝の時代にシルクロードを経てもたらされた古代ユダヤ教が景教と名を変えて弘法大師の手で日本へ渡って来た。
しかも京都に平安京を建設したのも皇帝と同じ名前だった秦氏だ。
何とロマンに満ちた話ではないか。

長崎の五島列島は遣唐使や遣隋使が出発した土地だ。
この五島に特殊なうどんがある。
椿油を使って伸ばし、乾燥させて乾麺に加工する。
つるつるとなめらかで、鍋料理などに使っても伸びにくい。
日本の三大うどんと呼ばれている。(あとは讃岐と稲庭だ)
この五島うどん、何かと良く似ている。
スパゲティだ。
あちらは製造過程でオリーブオイルを使うが、オリーブがない五島では椿油で代用したものと思われる。そして乾麺にするあたりもスパゲティと同じだ。
つまりここでも、遣唐使や遣隋使がシルクロード経由の西洋文明を持ち込んだ形跡が残っていることになる。

日本にうどんが伝来したのは博多が最初だという説がある。
聖一国師という僧侶が宋に渡来して仏教を学び、仁知二年(1241年)に帰国した際に博多の承天寺を開いて2年間とどまった上で京都の東福寺に赴任した。
博多では宋伝来のうどんを、京都では饅頭などを広めたという記録があるそうな。
商人で栄える博多では、素早く食べられる作り置きのゆで麺が主流となって、柔らかいうどんが広まった。
すなわちうどんそのものは宋からもたらされたものだったが、博多の商人たちの手で姿を変えたということができる。
長崎の五島うどんとは全く氏素性が違うのだ。

私が東京に上京したとき、最初に驚いたのは駅のホームの立ち食いうどんのノボリだった。
西日本では「うどん・そば」と書いてあるが、関東では「そば・うどん」になっている。そして何より出し汁の色と味だ。
九州とは言え味付けは関西風だから、関東の味に慣れるまで時間がかかった。
うどんの出しはカツオと昆布に決まっていると思っていたが、関東のうどんは真っ黒な醤油の中に沈んでいる。まるでざるソバだ。
ある年に、女房どのを載せて自家用車で長崎まで帰郷したことがあった。
その道々で、うどんの出しがどこで切り替わるのかを確かめようという話になって、いろんなサービスエリアで立ち食いを試みた。
結果とすれば、正しいかどうかは自信がないのだが関ヶ原サービスエリアが分岐点だったように記憶している。

太めのごぼうを斜めに切ってテンプラに揚げたものをうどんの上に乗せるのが、博多のごぼてんうどんだ。
福岡自動車道の大宰府ICの先に、基山サービスエリアというところがある。
ここのごぼてんうどんはトラックドライバーの強い支持を集めている。
そして長崎に入れば真っ先に食べるのが、江山楼のちゃんぽんだ。
五島うどんは家庭で食べるものと相場は決まっている。
平戸名産のアゴ(とびうお)を出しに取ると、高給料亭の味になるからふるさとはありがたい。

私に似合わず食べ物のことを書いてしまったが、やはり貧乏性なのだろう、うどんの話に終始してしまったようだ。


アメリカのゴールデン・グローブ賞

やや忸怩(じくじ)たる思いをしていたんです。

三丁目の夕日にしても、デス・ノートにしても漫画が原作のものばかり。

アメリカ映画にしてもスーパーマンから始まってバットマンだのスパイダーマンだの、挙句の果てにはアイアンマンだのとコミックの映画化のオンパレード。
いわゆる「脚本家はもう要らないよ」というメッセージだったわけ。

だって出資者(スポンサー)にとったら利益を回収してなんぼの世界なのだから、売れるかポシャるか知れない作品に投資をするバカはいないということ。
ヒットしたコミック作品を映画化すれば「そこそこの」利益は出るといった下衆の皮算用だったわけ。
そんなものには興味がない私でした。
考えが貧しいと言うか、芸術作品を作ろうという姿勢がまったく感じられなかった。

私は何も、アクションとかSFを否定しているのではなく、作品を作ろうとするチームの姿勢が貧しいのではないかと言っているだけ。
ところが、昨夜観たテレビ報道でアメリカの映画界が選んだゴールデン・グローブ賞に文学的な作品でいっぱいになっていた点に驚いた。
「アメリカの映画界は変わったな」と心からそう思わされた。

かつてアメリカの映画では「カッコーの巣の上で」とか「スケア・クロウ」だとか、あるいはショーン・コネリーが主演した「小説家を見つけたら」とかの作品が目白押しだった。
それがいつの間にかランボーとターミネーターに占領されて、やがてタイタニックのようなCGものに取って代わられた。
原作で勝負するのではなく、あくまでも映像で客を集める方法だ。
とりあえず簡単に製作費が回収できる方法を取った結果だったわけ。
アメリカ以外でもリング物語やハリーポッターなどが後に続いた。

ところがオバマ政権の危険性に気が付いたアメリカは、石油価格の世界的下落とともに国内経済の立て直しを図った。
私に言わすれば、失点を作ったのはブッシュであってその尻拭いをさせられたのがオバマだったように理解している。石油価格が下落した原因のひとつはシェール・オイルであって、これはオバマが進めた政策だったわけ。ブッシュは中東で戦争をしただけ。
しかし、いずれにせよアメリカは立ち直りつつあるらしい。
すでに自動車も家電製品も生産技術を失ったアメリカではあるけれど、まだ映画の供給では世界をリードしている。
そのアメリカ映画界が立ち直りつつあるということは、アメリカ国民に自信を与えるメッセージになるだろう。

明日の世界的文学作品が出るとすれば、どの国から出て来るだろう。
これには大切なセオリーがあって、かつてのロシア文学などのように社会の強い圧迫を受けた中から生まれる場合と、逆に安定した環境でこそ生み出される作品とがある。

こうした意味では、楽しみがある年がやって来たのかも知れない。




劣化する日本社会

ひとつ笑い話をご紹介しましょう。

先の衆議院選挙において、ある選挙区の応援演説に立った民主党の岡田さん。
マイクを持つなり第一声が「皆さん、このシャッター街を見てください。これは誰のせいだと思いますか?」
すると聴衆から間髪を入れず、「イオンのせいだ!」
周囲から爆笑がわき上がったという話。

わたし、過去のブログでも書いたんですが、社会人になった折に就職祝いとしてもらったモンブランのボールペン。
これの書き味が気に入って、インクカートリッジを取り換えながら何十年も愛用し続けたんです。
そんなに大量に流通しているペンではないので、カートリッジを取り換えるにはそれなりの専門店に出向く必要があったわけ。
都内の中心部であればそのような専門店はいくらでもあるんですが、郊外に住むようになると身辺に見つからなくなってしまった。
それでも駅前商店街などの文房具屋さんは、わたし以外にほとんど需要がないようなモンブランのインクカートリッジを在庫していてくれました。
でもその店のご主人が亡くなってから、廃業されてしまった。

店の名前こそ言いませんが、近くにあるのは大型スーパーだけ。
そこには様々なテナントが集まっていて、当然のように文具コーナーもあるんですが、そこの店員さんはモンブランのインクカートリッジを知らない。
「取り寄せは可能ですか?」と聞いても、店長からこう言われた。「あまり出るタイプじゃないですからねぇ・・・」

ドイツのモンブランは何十年もカートリッジの形状を変えずに作り続けていても、日本の小売店が売ろうとしていない。
営業成績の表彰を受けた副賞に電気髭剃りをもらったことがありました。
ブラウンの充電式のタイプだったのですが、何年かするうちに充電が利かなくなって街の電気屋さんに持ち込んだ。「バッテリーだけ交換してもらうこと、できますか?」
するとその時も店員さんがこう言った。「特殊なバッテリーですからね。新しいシェーバーに買い替える方がお安くつきますよ」
誰でも一度は聞いたことがあるような美術館の収蔵庫を受注した際の表彰で、わたしにとったら記念品。安くて高品質のシェーバーがありますよ、と言われて「はい、そうですね」とは言えない。
家族のように育てて来た犬が病気になって、ペットショップに相談したら「新しいのに買い替えればいかがですか?」と言われたようなもの。当然わたしは憤慨したわけです。

行き付けの焼き鳥屋で顔なじみのお客さんがいるんですが、彼は元大工さんのリタイヤ組。
自分で小さな工務店を営ってたらしいんですが、○○ハウスなどの建設大手の手形被害を受けて看板を下ろしたと言っていました。
その彼は「昔は大工が家を建てたならば、7.5.3でご挨拶をしたもんだ」と言うんですね。
つまり一軒の家を建てれば、その後3年目、5年目、7年目には「悪いところはありませんか?」と言ってアフター・ケアをするのが常識だったと言うんです。
「ところが最近では、建設メーカーばかりか、家電メーカーまでが建て売り住宅を造って売りっぱなしの状態を見せている。」と憤慨しているんですね。
わたしも収蔵庫などで木工関係の職人さんらと一緒に仕事をする機会が多かったので、その棟梁とも話が良く合ったわけ。

「大体ね、最近の建て売り住宅なんてほとんどが工場で規格製造された乾式工法だよ」乾式工法と言うのは、鉄骨を組んで外壁を貼り、断熱材を挟んで内壁を貼れば一丁あがりというもの。
「俺たちが師匠から習った建て方は、北側に使う柱と南側に使う柱を選び分けろ、というもんだった。今じゃ北も南も関係なく工場で規格通りの鉄骨(ダブチャン)を造るんだから俺たちのような知識は必要じゃなくなっている。しかしね、数年前に行ったヨーロッパには古い建物がちゃんと残っていて、パリのアパートなんか築100年なんてざらにあるらしい。日本の個人住宅で築100年なんてあるかい?」
インスタントですねとわたしが言うと「おめぇ、上手いこと言うなぁ」と誉められた。
「今の世の中は何でもかんでもインスタントよ、子供の教育にしてもなぁ。親が信仰の背中を子供に見せずに文化生活だけに夢中になった結果、今どきの子供は『宗教なんて信じるのはバカだ』と言うようになっている。日本人は便利なものだけを選んで、国としての良さを捨て去ってしまった。故郷には立派な実家があるのに、子供夫婦は都会でインスタント住宅に満足している。」
「でも東北の大震災では、日本人の美徳が世界中から絶賛されたじゃありませんか」とわたし。
「ありゃ田舎だからだよ。神戸を見てみろ、復興後の神戸がどんなことになっているか、おめぇ知ってるか?」
「たしかに・・・」

2015年が始まった。
日本人は、深い部分で大きな岐路に立たされているような気がしてならない。
政治とか経済とかの表面的なことではなく、本質的な部分でずいぶん日本人は性能劣化を起こしているように思える。
立ち止まって沈思黙考することもたまには必要なのかも知れない。
今日は成人の日だ。


皆さん、ご機嫌よう。





「お兄さんの国」と呼ぶのは誰だ

ブリタニカ国際大百科事典によると、末法思想のことを以下のように解説している。

「釈尊の入滅後,年代がたつにつれて正しい教法が衰滅することを説いた仏教の予言,およびそれに基づく思想。正法,像法の時代を経て,教えのみ残り,修行も悟りも得られなくなる末法に入るとされる。」

このことから「世(よ)も末(すえ)」という言葉が生まれた。

http://news.kmib.co.kr/article/view.asp?arcid=0009024691
が次のように報じた。

(引用ここから)

チョン・ホンウォン総理は10日、世宗(セジョン)市雲住山(ウンジュサン)で出入りの記者団と登山をした席で日本政府が高校教科書から慰安婦関連記述を削除する方案を承認したことについて「教科書から消すと歴史がなくなるのではない」として「米国も私たちと認識をだいぶ共有している」と指摘した。
日本国内の反韓感情については「私たち国民が被害をこうむってはならない」として「日本の指導者たちは何ら問題がないというが、実際は違うという気がする」と明らかにした。

引き続き「法律構造制度の場合、日本が私たちを習いにきて‘お兄さんの国’と呼ぶほどで多方面で私たちが日本に先んじている」として「このような点に対する日本の心理的な問題もあるようだ」と解説した。

(引用ここまで)

「日本が私たちを習いにきて、お兄さんの国と呼ぶほどで多方面で私たちが日本に先んじている」
この発言が一国の総理の口から出たことに、日本のネットでは怒りを通り越して呆れる反応が相次いでいる。

このことはレームダックに陥りつつある朴槿恵政権への援護射撃のように聞こえるのだが、視線を少し変えれば韓国人が本質的に持っている「思い込みの凝り固まり」というとんでもなく丈夫な牢獄に捕えられている姿が見えて来る。
政治的な作戦でこうした発言が出ているのであればまだしも、もしこれが韓国人の「本音」だったとしたら形だけの日韓友好など何の意味ももたらさないということになる。
現代韓国の法体系はすべて日本の法典を丸写しにして出来上がったものであり、そうした事実すら知らない人物が総理を務めている。これをもって「世も末だ」と言わなくて何なのだろうか。
いったい誰が韓国のことを「お兄さんの国」と呼んでいるというのだろう。舛添か? あるいはサザンか? バカも休み休み言う方が良い。

子供のたわ言であれば笑って済ますこともできるだろう。しかし一国の総理にしてこの認識であるならば、日本の一部で友好を主張している団体の足を引っ張る効果しかないことを自覚すべきだ。
特定の宗教を信じている人に「あなたの神様は偽物だよ」と忠告しても、何も意味がないのと同じことだ。
基本的な思い違いをしている相手と、友好関係は維持できない。
せめて他人行儀な「近所付き合い」にとどめるしか方法がない。それは呉善花教授も言っている通りだ。
いわんや安全保障上の軍事協力を持つのは自殺行為にしかならない。
日本の自衛隊を、そのような認識の国の軍隊と協力作戦に出させることはできない。
もちろん韓国はセウォル号の事故の際にも、日本の海上保安庁の協力申し出を拒否しているから、軍事的な協力関係を望むはずがない。

産経新聞の記者も対馬の仏像もいまだ戻って来ない状態で、どうやって友好関係が築かれるというのだろう。
治癒不能な疾患に犯されている患者が末期的状態に陥り、今年の内にも経済が崩壊する危険性を高めている。
このことは日本にとって、この上ない不幸である。

「ほらボク、あのオバサンの方を見ちゃダメよ、知らん顔してなさい」



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